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カフェと狂人

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スタバで文章を書いていたら、隣の席に男がやってきた。「ペッペラペッペラピッピッピ♪」と歌いながら歩いてくる。たぶんオリジナルソングだろう。それで私の身体に緊張が走った。頭のおかしな人間だと思ったからである。

カフェにおいて、隣に頭のおかしい人間が座るのは緊張するものだ。実害はないにしても、ペッペラピッピの歌を隣でえんえん歌われた場合、集中できたものではない。

この男については、そのあと友人らしき男がやってきて普通に会話をはじめたので、頭がおかしいわけではなく、ゴキゲンな時に少々おかしな歌を歌ってしまうだけだと分かった。ややうるさいくらいで、それならばイヤホンをして音楽を聴けばいい。

カフェに通うようになると気づくことだが、街には一定数、狂気の世界に行った人々がおり、カフェの常連になっている。この街をうろつくようになってからの七年で、私は三人の狂人を見た。

一人は中年の男で、だぶだぶのシャツを着ており、いつも独り言をぶつぶつと言っている。丸テーブルの座席に一人で座り、向かいの席の人間と話し込んでいることもある(誰もいないのに)。

もう一人も同じく中年の男で、こちらは太っており、めがねをかけている。レンズが汚れて色眼鏡のようになっている。この男も一人でぶつぶつとつぶやいている。この男には店内を定期的に移動する癖がある。つまり、ひとつの席から別の席へ移動し、しばらくすると、また別の席へと移動するのである。もちろんカフェでは席の移動は自由だろうし、私もたまにやるが、この男はそこに何ら法則性が見えない。ただずっと移動し続けている。

最後は、おばさんなのか、おばあさんなのか、年齢不詳の女で、常にベビーカーを押しながら街を歩いている。しかし、そこに赤ん坊は乗っておらず、かわりに赤ん坊の人形が二体乗っている。これはよく通行人に二度見されている。私はもう見慣れているので二度見はしない。

昔、カフェでバイトしていたことがあったが、そのときも一人、常連に頭のおかしいおばさんがいた。その人は、人間に笑顔を向けられると、自分を馬鹿にして笑ったと解釈するようだった。最初、いわゆる営業スマイルでニコッと笑ったら「何がおかしいのよ!」と怒鳴られ、くしゃくしゃのレシートを投げつけられた。以降、その人を接客するときは笑ってはいけないことになった。

別の喫茶店で働いていた時も、常連に情緒不安定なおばさんがいた。この人は、機嫌のいいときは「あんたたちは朝から大変だから」と言って、代金とは別に小銭をにぎらせてくる。しかし機嫌の悪いときは、普通にコーヒーを出しても「なんなんだこれはッ!」と怒鳴られていた。「コーヒーです」と言いたくなるが、申し訳ありませんと言って、新たにいれなおしていた。

このおばさんが、店内で他の常連のおっさんに胸を揉ませて1000円受け取っているのを見たことがある。今思うとめちゃめちゃな店だった。変なおっさんとおばはんが大量にいる街だったから、私も麻痺していたのかもしれない。「1000円かあ」と、値段のほうを気にしていた(相場がわからなかったので)。

どんどん思い出してきたが、その店には、全身をゴージャスに着飾ったおばさんもいた。この人は、話自体は普通に通じる。ただ、とにかく自分が金持ちであることを全身でアピールしているような人だった。しかし考えてみると、本物の金持ちは私が働いていたコーヒー1杯200円の喫茶店には来ない気がするが。

そのおばさんは毎日やってきた。そのうち、なんとなく挨拶くらいはする関係になった。ある日、「ここのバイトは時給いくらなの」と聞かれた。私は素直に答えた。800円だった。おばさんはふうんと言い、小さな紙切れを渡してきた。

「もっと稼げるわよ、あとで電話しなさい」

あれは何だったのか。結局、電話をしなかった。そのへんが私の普通さである。絶対やばいじゃん、と思って無視した。その後もおばさんは普通に店に来たし、電話しなかったことに不満もないようだった。

もし電話をしていると、日常の中に唐突に暴力が侵入してくるという古谷実マンガ的な展開になっていたのかもしれない。あるいは、おばさんの女性器を舐めてお金をもらう、みたいな展開になっていたのか。その場合いくらもらえたんだろう。やっぱり1000円かな(相場がわからない)。


太るための才能がない

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二ヶ月ほど筋トレをしているんだが、食事量はとくに増やしていない。一日に大きめの食事を一回と、パンなどの軽めの食事を一回。一日に一食半といったところだ。べつに小食のポリシーがあるわけじゃなく、自分の食欲にあわせるとこうなった。

しかしどれだけ筋トレしても、この食事量だと身体はそれほど大きくならない。それでどうしようかと悩んでいる。身体を大きくするならば食事の量と回数を増やさなくてはならないが、これが非常にしんどいのである。

むかし、岡田斗司夫のダイエット本で「デブとは太るための努力を惜しまない存在である」という一文を読んだ。あれがよくわかる。もちろん岡田斗司夫は皮肉として言ったわけだが(ダイエット本だし)、私はもう皮肉でもなんでもなく、太るために努力できる人には尊敬の念をおぼえる。とくに筋トレをしているときは。

私は日々の食事をルーチン化するのが好きで、コンビニで買うものや定食屋で頼むものは、すぐに固定してしまう。食べ物のことを考える時間がへると嬉しくなる。人生における食事の時間は、少なければ少ないほどよいと思っている。

これが「太るための才能がない」ということなんだろう。無自覚に努力できる人間には才能がある。というよりは、才能がない時にだけ「努力」などという野暮ったい言葉が登場するのであり、その意味で、私にはまったく太る才能がない。

めし好きの才能とはどのようなものか

めし好きの人間と行動していると、基本的な行動原理がちがうことを実感する。言動のふしぶしに、「この世界のどこかにもっと美味しいものがあるはずだし、私はそれを絶対に食べるべきだ」という信念を感じるというか。

このあいだ、めし好きの女子二人組とコンビニに入る機会があったんだが、私が5分で会計をすませたあとも二人はずーっと店内を物色しており、才能のちがいをひしひしと感じた。買う気のない商品までいちいち手に取っては感想を言いあい、さらにレジ近くのおでんコーナー前に立つと、二人でひそひそと何かを相談している(たぶん「どの具が一番おいしそうか」みたいな話)。

この二人は「食べたいものリスト」みたいな紙をいつも持ち歩いていて、そこに店の名前をズラーッと書いている。街を歩いていても、知らない店を見つけると立ちどまってチェックしている。よさそうだと思えばスマホで看板を撮影し、ますますリストが充実していく。

そのあげく、「太っちゃうんですよねー」とか言うんだが、これ、ブラジルのサッカー少年が毎日夢中でボールを蹴りつづけたあげく、「うまくなっちゃうんですよねー」と言うようなものじゃないか。天才の発言はこれだから困る。その脂肪は才能の証明でしょう!

最近になるまで、私は本屋にたくさんのグルメ雑誌が並んでいることにピンときていなかった。テレビのグルメ番組もそうである。どうしてそういうものが大量に存在しているのか、いまいち分からなかった。ダイエットという言葉がやたらと飛び交うことも疑問だった。「カロリーオフ」が売り文句になることも納得がいかなかった(むしろ損をした気持ちになる)。

もしかしてみんな、自分が思っていたよりもずっと、食べることが好きなのか。

才能のない人間ほどカロリーを気にする

一時期、スタバでコーヒーではなくソイラテを頼むようにしていた。そのときも私は体重を増やそうとしていたんだが、顔見知りの店員に言うと「べつにソイラテじゃ太らなくないですか……?」とつっこまれた。

このへん私は天然というか、ズレにズレている。ブラックコーヒーをソイラテにかえて太ろうというのが、そもそもヤセ型の発想なんだろう。しかし当時の私はわざわざカロリーも調べていた。コーヒーSが10kcalで、ソイラテSは140kcalだ。「14倍! すごい太っちゃうぞ!」と嬉しかった(ぜんぜん太りませんでした)。

おそらく、本当に太りたければフラペチーノのでかいやつでも飲めということなんだろうが、こうなると大変な努力が必要になる。過去に二度ほど飲んだことがあるんだが、フラペチーノというものを日常的に飲める人間、すごくないですか。

自分のなかで、あれはディズニーランドと同じところに入っている。人生で何度か行ければいい。フラペチーノはアミューズメントパークである。

しかし、そうやってソイラテSで太ろうとしている男の横には、「好き」という気持ちだけを原動力にダークモカチップフラペチーノのグランデサイズ(500kcal)を飲んでいる客がいたりするわけで、なんだかもう、そそりたつ才能の壁に絶句する。

そもそも、いちいちカロリーを確認するあたりもヤセ型なんでしょうね。せせこましいというか、けちくさいというか、いかにも太る才能のない人間がやりそうなこと。天才はカロリーなんて考えない。そういう次元で生きていないのだ。

これは先述のめし好き女子もそうだった。「食べたぶん運動しようかな」と言われたので、私は純粋な善意から、ジョギングの消費カロリーはこれくらいだが、ごはん一杯でこれくらいだし、運動でやせるよりも、食べる量そのものを減らしたほうがずっと早いんじゃないかと提案したんだが、彼女は「うーん」と言ったあと、

「でも私、ああいう数字ぜんぶ、うそだと思ってるんですよ」

そう返されて話が終わった。カロリーという概念自体が「うそ」の二文字で切り捨てられていた。圧倒的な才能の差を感じた。うそなわけないじゃん! 数値として出てるのに!

『アメトーーク』でサンドウィッチマンの伊達みきおが、「柿の種ってすごく小さいし、カロリーゼロだと思うんですよ」と言っていた。あのときの衝撃を思い出した。ほんとにもう、世の中天才だらけ。全然ついてけない。太るための才能ないです。

いつまでもデブと思うなよ・電子版プラス

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スーパーのテーマソングは不思議とポジティブ

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近所にイズミヤというスーパーがある。関西人なら説明するまでもないだろう。しかし他の地域の人には聞き慣れない名前だろうか。スーパーの名前というのは非常にローカルなもので、すこし場所が変わると途端に通じなくなるからだ。 

子供の頃、私は石川県に住んでいたんだが、「ニューサンキュー」というスーパーを全国的なものだと思っていた。しかしあれも地元限定だったようだ。いま思うとへんな名前である。ニューサンキュー。新たなる感謝。分かるようで、よく分からない。

当時、私の母親はあの店を「サンキューさん」と呼んでいた。小学生の私も真似をして、「ちょっとサンキューさん行ってくる!」と元気に家を飛び出していた。ものすごく牧歌的だ。サンキューをさん付けするだけで、ここまでほのぼのしてしまうのか。

東京の国分寺に住んでいた頃、近所に「いなげや」というスーパーがあった。国分寺では名の知れたスーパーのようだったが、私は最後まで慣れることができなかった。どうしても「いな毛や」と認識してしまい、身体のどこに生えているのかを探してしまう。できれば、いな毛は切っておきたい。なんだか恥ずかしいし。

現在にもどろう。いなげやではなくイズミヤの話である。イズミヤに行くと店のテーマソングがずっと流れているんだが、そのたびに「なんなんだこの歌は」と思う。こんな歌詞である。

君の声が しぐさが その笑顔が
気づけばほら どんなときも すぐそばにあったよ
いまありがとうに 大好きのおもいをのせて
大切なきみへおくるよ
サンキュー・フォー・ユア・ラブ

この、妙にポジティブな歌詞は何なのか。「妙に」というのは、前向きさの意味がいまいち分からないからである。どこにも辿りつかないポジティブさ。

歌い手はイズミヤであり、「君」というのは客のことなのか。なにかに感謝しているのは分かるが、その対象がわからない。ものすごく観念的なやりとりをしている。

実際に店舗でやり取りされているのは、商品と貨幣である。音楽は上のほうで流れている。上空で観念がやりとりされ、下層で商品がやりとりされる。マルクスが言っていたのはこういうことだったのか(ちがう)。

まあ、毎日使う場所だしポジティブな言葉がいいでしょ、というだけなんだろうが、なんとなく引っかかっている。なぜそんなに前向きなんだ。非常に不思議なポジティブさだ。虚空にむけてポジティブを放り投げるかのような。

イケメンが動くとかっこいいんだなあ

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残穢【ざんえ】―住んではいけない部屋―

このあいだ坂口健太郎という人を映画で見て、そのかっこよさに衝撃を受けた。それまで名前といくつかの画像を見たことがあるだけだったんだが、はじめて動いているところを見た。しばらく呆然とながめていた。言葉が出なかった。しみじみと思った。

「イケメンがうごくと、かっこいいんだなあ」

多少、相田みつをみたいになっていた。私は胸がときめくと相田みつをになるのか。

ふだん映画やドラマをあまり観ないため、俳優や女優はネットの小さな画像だけで認識している。その状態では美しい顔立ちにもそれほどの破壊力が生まれず、「まあ、たしかにかっこいいですよね」と、適当な距離をとって見ることができる。しかし実際に動きはじめるとなれば話は別だ。坂口健太郎の動く姿を見てそれを思い知った。

観ていたのは『残穢』というホラー映画で、坂口健太郎は若手作家として登場する。めがねをかけており、髪はぼさついていた。やや癖のある役回り。かっこいい素材に変化球の味つけをしてみましたという感じ。それでも後半に坂口が登場して以降、意識の半分は坂口を追うことに奪われた。ホラー映画であることを忘れた。

その後、もっと坂口健太郎の出てくる映画を観てみたいと思い(完全にハマッている)、『君と100回目の恋』というのを観た。タイトルからも分かるとおり、こちらは恋愛ものであり、坂口健太郎は主人公の女が想いを寄せる相手として登場する。

これはすなわち、坂口健太郎をかっこいい男として描く必要があるということであり、脚本、演出、衣装、そのすべてが坂口をかっこよく見せることに向けられるのであり、もともとかっこいい男をプロの大人たちが寄ってたかってかっこよく見せようとする事態が起きており、それでどうなるかといえばかっこよくなるわけであり、私は本当にかっこいいと思いました(胸がときめくと語彙もへるんだなあ)。

君と100回目の恋

この映画では、「坂口健太郎にこんなことされたら最高だよな」と思うようなことをだいたい実際にやってくれるので、観ているとだんだん気持ちよくなってくる。

まず、序盤の坂口は主人公に冷たい。まったく笑顔をみせないし、「おまえの言うことくらい読めんだよ」と偉そうに上から言ってくる。周囲の人間には「イヤミなくらい完璧なヤツ」と評されている。まったく付け入るすきがない。

しかしもちろんそれは主人公への恋心を隠しているからで、中盤で坂口がある秘密を打ち明けてからは態度が豹変、とにかく坂口の求愛がとまらない。こちらをジッと見つめて、「おまえのこと好きだよ、はじめて見たときから」とか言ってくる。スッピンの女が深夜に缶チューハイ飲みながら「カーーッ、言われてみてぇー!」と絶叫しそうなシーンの連続。

一番よかったのは、主人公と坂口をふくめた仲良し五人組で夜の浜辺にいる場面。

向こうの空にUFOが見えたと一人が言い出し、興奮したみんなが次々と走り出す。主人公もそれを追いかけようとするが、坂口がその腕をグッとつかんで引き戻し、そのままギュッと抱きしめる。あれはずるい。刹那に生まれた二人きりの時間を利用したハグ。ときめきでおもらしする。

あと、この映画のキスシーンはすごくて、「坂口健太郎にこんなキスをされたい」という願望から逆算したとしか思えない状況になっている。

具体的にはこうである。主人公が大学の図書館で高いところにある本を取ろうとしている。本棚の前にはなぜかすでにハシゴが用意されている。庭師が使いそうな、両側から登ることのできる本格的なハシゴである。

主人公はハシゴに登り、がんばって本を取ろうとするんだが、なかなか届かない。えいっえいっ、と手を伸ばしている。するとそこに坂口が登場し、ハシゴの反対側から登ってきて、スッと本を取ってくれる。そして二人はそのまま見つめあう。

この時点で、「いやいや、もう平成も終わるのに……」と私は元号のことを考えていた。高いところの本を取ってもらうという、いにしえからありそうなド定番中のド定番を、まさかこの時代に見せられることになるとは。

他にも疑問点は色々ある。この図書館にはなぜ二人以外に誰もいないのか、大学の図書館にこれほど人がいないことあるか、司書すらいないように見えるがどうなのか、主人公はなぜあんな高いところの本を取ろうとしたのか、背表紙すら見えない高さなのになぜその本を取ろうとしたのか、本当にその本を読みたいと思っていたのか、なぜ坂口は都合よく登場したのか、あらゆる偶然がこんなにもあからさまに重なって、一つの状況を作りだすことはあるか!

そんなふうに無数の疑念がわいてきたんだが、そのまま坂口健太郎がキスしてきたので心が停止した。もうどうなってもいい。

いまどきジャンパーと言うか

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去年の冬の終わり、「このジャンパーも片付けよう」と言って杉松に爆笑された。ゲラゲラ笑うという表現がぴったりくる爆発的な笑いだった。「ジャンパー! ジャンパーって! 古いよ、おっさんだよ!」と勝手に盛り上がっていた。

私はムキになって、「なんだよ、じゃあブルゾンか?」と言ったんだが、この発言が火に油をそそぐ結果となった。「それもおっさんだよ!」とのことだ。もがけばもがくほど泥沼にはまりこんでいく。ちなみに、ジャンパーおよびブルゾンを現代の人間として恥ずかしくない形で表現するならば、「アウター」らしいです。

もちろん、ジャンパーという言葉に危険性を感じてはいた。この言葉が地雷である可能性は察知していた。地面がモコッとしていた。踏めば爆発するかもしれないと思っていた。しかし私は他の言葉を知らなかった。そしておそるおそる踏んでみたら爆発した。

もっとも、ブルゾンも地雷だとは知らなかった。右足で爆発、左足で爆発だ。とにかくファッション周辺の言葉は地雷だらけ。それを扱うには、流行の微細な変化になめらかにふれる技術がいる。

私も昔、カップルのことを「アベック」と言うおっさんおばはんを笑っていたから、過去の自分に復讐されているということか。アベックを笑う者は、やがてジャンパーで笑われる。こうして連鎖していくのか。

そういえば、このあいだZARAのサイトを見ていたら普通にブルゾンと書いてあったんだが、あれはなんなのか。ブルゾンというのは別にいいんじゃないのか。それとも、平気でジャンパーと言ってしまう男の言うブルゾンは駄目ということか?

つまり、ブルゾン自体は現役のことばなんだが、ジャンパーとセットで口にした場合のみダサくなる。遊戯王ふうに言うならば、ジャンパーが場に召喚された状態で新たにブルゾンを召喚したときのみ、特殊効果「ダサい」が発動。

というか、すぐ遊戯王ふうに言おうとするようなところがダメなのか?

ジャンパーについて、もう少し書こう。世間的には死んだ言葉かもしれないが、私の中では元気にしているからだ。

私がジャンパーという言葉と出会ったのは子供のころ、『ジャンパーソン』という特撮ヒーロー番組においてだった。これはそれほどメジャーなものでもなさそうだ。同年代のごく一部の人間しか知らないかもしれない。私もすでに内容を忘れていた。

ネットで調べたところ、1993年に一年間だけ放映されていたようだ。説明によると、ジャンパーソンはたまにジャンパーを着て戦うらしい。いつも着ろよ、と思った。名前に冠しておいて気まぐれで着るな。名乗る以上はジャンパーという言葉に責任を持て。

ジャンパーというか、ジャンパーソンの話になっている。終了。

しかも「アウター」の使い方をまちがえるのか

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前回の文章がたいへんだ。

ちなみに、ジャンパーおよびブルゾンを現代の人間として恥ずかしくない形で表現するならば、「アウター」らしいです。

この部分なんだが、「アウター」はおかしいと指摘された。「アウター」だと、ジャケットやカーディガンまで含まれてしまうという。

「ファッション関連の言葉は地雷だらけだ」と言っている瞬間、またしても別の地雷を踏んでいたという事実。これは相当に恥ずかしい。しかも爆発したことに気づいていない。タフガイですね。

整理しておくと、「アウター」はトップスに羽織る衣類全般をさしている。ジャケットだろうが、カーディガンだろうが、「アウター」である。その意味ではジャンパーも「アウター」ではあるが、言葉の意味する範囲がずれているため不自然である。「ブルゾン」はべつに古くないので、「ジャンパー」は「ブルゾン」と言い換えればよいのではないか。

ということみたいですよ!(もう地雷を踏んでませんように)

水を飲んで心を落ちつかせた後、なんとなく、上の文章を置き換えてみた。

ちなみに、「おむすび」および「にぎりめし」を現代の人間として恥ずかしくない形で表現するならば、「米」らしいです。

私はこういうことを言ってたわけか? だとしたら、かなりのバカ丸出しだ。バカの露出度が非常に高い。

あるいは、

ちなみに、「おむすび」および「にぎりめし」を現代の人間として恥ずかしくない形で表現するならば、「食糧」らしいです。

こっちのほうがいいか? こっちのほうがいい気がしてきたが、しかしまあ、どちらにしても、バカが陳列されていますね。

ということで、もういろいろと大変なので、今後、「ふく」と「はだか」以外は使わないことに決めた。これならさすがに大丈夫だろう。ファッション関連の言葉はすべて「ふく」。脱ぐと「はだか」。原始人マインドで生きていく。

あと、せっかくなので告白しておくと、私はもう何年も「カットソー」という言葉をフワフワした意味で使っている。何なのかよくわからないまま、雰囲気だけでカットソーと言っている。ずっと気になっていたが、しかし、もうどうでもいい。

カットソー、ふく。

おれ、にんげん。

北海道で一人のヒモに出会った

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北海道でヒモの男と知り合ったことがある。

大学生の時、ひとりで電車を乗り継いで札幌まで旅行した。その時に出会ったのだ。旅先で知り合い、旅先で別れてそれっきりの男だ。元ホストの男だった。女のヒモをやっていた。生活費から何から、すべて女に出してもらっている。

強気な男だった。同時に、どこまでが本当でどこからが嘘なのかよくわからない男だった。ハッタリと真実の境界線が見えなかった。当時私は二十歳だったから余計に。

京都から名古屋、名古屋から東京、東京から仙台というふうに、私は電車を乗り継いで旅行していた。宿泊はネットカフェが多かった。最後に仙台から函館を経由し、札幌駅に到着した。ネットカフェの連泊に疲れ切っていた私は、駅近くのカプセルホテルに泊まることにした。そこで男に出会ったのだ。

小さなエレベーターに乗り込むと男がいた。私は軽い会釈だけしてあとは沈黙した。しかし、エレベーターが上昇しているあいだに向こうが話しかけてきた。

ーーここに泊まるんですか?
ーーええ、まあ。
ーーいまから受付ですか?
ーーそうです。
ーー北海道は着いたばかりですか?
ーーはい、さっき。
ーーどこから来たんですか?
ーー京都なんです。
ーーへえ、京都!

徐々に会話が弾みはじめた。あれはすごかった。完全にホストの話術の延長にあるものだった。私は女を口説くように口説かれていたのだ。

エレベーターが目的の階に着いた。私は受付をすませてカプセルに荷物を置いた。男は案内してくれた。すでに長く泊まっているらしい。もうすこし話しませんかと言われ、二人でホテルの非常階段に座った。

しばらく互いの基本的なことを話した。気づけば向こうは敬語をやめていた。なめらかなシフトチェンジだった。男は二十六歳だった。当時の自分より六つ上だ。ふだんは東京に住んでいるが、三ヶ月ほど北海道に滞在しているのだという。

すこし打ちとけた雰囲気になったころ、男がジッポを見せてきた。そこには植物の絵が描かれていた。「これわかる?」と男は言った。わかるも何もただの植物だろうと思ったので、「はあ」とだけ答えた。それで教えられたが大麻の絵だった。私はそれも知らなかった。

北海道には野生の大麻が生えているから、それを探しに来ているんだと男は言った。本当なのか分からなかった。北海道に来てからの三ヶ月で18人の女とやったとも言っていた。これも今思うと微妙だ。女の写真は一枚だけ見せてくれた。携帯に入った画像で、茶髪の女がシーツで胸をかくして笑っていた。たぶん本物だった。だから少なくとも一人はいたんだろう。

非常階段で話し込みながらも、私は男のことがいまいち信用できず、カプセルホテルの自分のベッドが男の仲間に荒らされている可能性を想像していた。これは杞憂だった。男はそういった類の悪人ではなかった。

深夜まで話し込んで別れた。今から街に出て友達と話すんだと男は言った。札幌駅の近くにたくさん友達がいるらしい。いっしょに来るかと聞かれたが断った。そして自分のカプセルに戻った。ずいぶん変な男に会ったもんだと思い、その日は寝た。

もう会わないだろうと思っていたが、翌日ホテル備えつけの大浴場に行くと男がいて、ふたたび話しかけられた。その日、私は一人で小樽を見て回るつもりだった。男は一緒に行くと言った。とくにこだわりもなかったから私は受け入れた。

二人で小樽に行った。目についた店で私は海鮮丼を食べることにした。男は外で待っていると言って店には入らなかった。海鮮丼はうまかった。

店を出ると男はサングラスをかけていた。すこしハイになっていた。店の裏のところで大麻を吸っていたんだ、と男は言った。大麻を吸うと目が赤くなるから、サングラスで隠さなければいけないのだという。声がすこし大きくなっていたが、それほど印象は変わらなかった。酒に酔うようなものなんだろうか。

二人で札幌に戻った。帰りの車中でヒモをしていることを教えられた。東京にいる女が生活費を振り込んでくれるのだという。女とはパチンコ屋で知り合った。向こうもこちらも常連だった。店で会うと挨拶するようになった。そこからは早かった。女はすごく美人なんだが、男に惚れているのだという。もっと色んな子と遊びなよ、私だけじゃもったいないよ、と言われているらしい。

「だから遊んでるんだ」

そう言い、また三ヶ月で18人の女とやった話がはじまった。話のあちこちに「師匠」という言葉が出てきた。ナンパの師匠らしい。出会い系で女を引っかける技術を学んだという。男は師匠のすごさを熱っぽく語った。ずいぶん尊敬しているようだった。

私は札幌のカプセルホテルに数日滞在した。ここから記憶は断片的になり、時系列が錯綜する。男も同じホテルに泊まっていたが、常に一緒だったわけではないからだ。

ある時、男とふたりで早朝の地下街の階段にいた。まわりには誰もいなかった。話の流れだろうか、俺は歌がうまいよと言われた。そうなんですかと私は答えた。すると男はいきなり歌いはじめた。T-BOLANの『離したくはない』。それで私は面喰らった。まさか実際に歌いはじめるとは思わなかったからだ。しかも男は律儀にAメロから歌いはじめていた。こういう場合、普通、サビだけではないのか?

Aメロ、Bメロ、サビというふうに、男はしっかり一分ほど歌った。早朝の地下街に男の歌声がひびいていた。私は誰かが来ないかと心配していた。男の歌はそれなりにうまかった。自画自賛するほどではなかった。

野生の大麻を探しにきたと言うわりに、男はいつも札幌駅のあたりでぶらぶらしていた。しかし過去に北海道で警察に追われたこともあるという。パトカーからぎりぎりで逃げ切ったと言っていた。その描写は映画のカーチェイスのようだった。

東京の女と話しているところを一度だけ見たことがある。雑談していると電話がかかってきたのだ。男はすこし離れたところで通話をはじめた。その声は別人のようだった。女の話にずっと相槌を打っていた。うん、うん、という、なだめるような声をいまだに記憶している。その声はやさしく、その背中は小さかった。

札幌に来て数日が過ぎていた。その日も男と二人で深夜にだらだらしていた。男は携帯でメールをしていた。女ですかと聞くと「いやこれは師匠」と言われた。そしてまた師匠のすごさを語りはじめた。私は師匠にかんする話をなんとなく聞いていた。やがて男は打ち明けるように言った。

「この人の職業、殺し屋なんだ」

その瞬間、この数日の虚実の皮膜が唐突に破られた気がした。しかし私は指摘できなかった。「殺し屋なんですか」とだけたずねた。

「うん」と男は言った。

「やばいでしょ?」

私は笑いそうになったが、笑わなかった。「やばいですね」とだけ答えた。もしかして、大麻じゃなくて雑草か? 心のなかで思った。

私は札幌を出ることにした。さすがに京都まで鈍行を乗り継いで帰る気にはなれなかった。電車で苫小牧に行き、そこからフェリーで帰ることにした。男は札幌駅まで見送ってくれた。

別れ際、「上田くんって変わってるよね」と言われた。それで私はずっこけそうになった。あんたに言われてしまうのか。大麻を吸い、三ヶ月で18人の女とやって、知り合いに殺し屋までいる男に、変わってると言われる自分は何なのか。半魚人かなにかか。

男と別れた。フェリーは十八時間かけて苫小牧から敦賀まで進んだ。私はその大半を眠って過ごした。たまにデッキにあがってビールを飲んだ。二十歳の夏だった。世の中には色々な男がいるもんだと思った。しかし私は二十五歳で女の家に転がりこんだ。世の中には本当に、色々な男がいる。

女子小学生になりたいか?

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このあいだ男四人の飲み会があった。参加者は二十代と三十代。

わりと酒が入ったとき、ひとりが突然「女子小学生になりたい」と言い出した。私はベロベロゆえの奇天烈発言かと思ったが、他の二人は「わかる!」「たしかに僕も女子小学生になりたいです!」と同意しはじめた。

その結果、私以外の三人が「女子小学生になりたい」という願望で結束してしまい、「逆におまえは何故なりたくないのか」と私が問われる展開となった。まさか女子小学生になりたくない男がこの世にいたとは、というふうに。

まあ、文章にしてみると、なんちゅう飲み会に参加してんだと思いますが。

帰り道、ひとりで歩きながら、「なぜ俺は女子小学生になりたくないんだろう?」と考えていた。自分のなかにない欲望を提示されたとき、私はよくそうする。その場では、「チヤホヤされたい」という理由が挙げられていた。「めちゃくちゃかわいい自信まんまんの女子小学生になって、徹底的にチヤホヤされてみたい」という願望らしい。

まず、女子小学生にかんする認識のズレがあると思った。私のイメージする女子小学生は、部屋のすみっこで体育すわりをしている。ひざとひざのあいだに顔をうずめている。肉体が十分に発育しておらず、袖から見える腕は折れそうなほどに細い。

それが私にとっての「女子小学生」で、だからなりたくない。部屋のすみっこでうずくまる存在にはなりたくないでしょう。

ちなみに、「男子小学生」をイメージしてみると、半ズボンで運動場を走りまわっている。体育すわりをするとブリーフが見え、たまに金玉も飛び出している。発言の三割が奇声と擬音。ランドセルを背負ったまま全力で走るから、中の教科書がガサガサと揺れている。それが私のイメージする「男子小学生」。

男子と女子でこれだけイメージが変わることに、どんな深層心理があるんだと思うし、aikoを聴いていくなかで自分の内部に背の低い女を発見したことも関係していそうだ。ちなみに、男子小学生にもべつになりたくないです(金玉はしまっておきたい)。

言葉はイメージを喚起する。しかし、そのイメージは人によってズレている。これは意識してみると面白い。以前、別の友人と、「『日本』という言葉でどんなイメージを浮かべるか?」という話になった。相手は「四季の風景」や「ふるさとの夕焼け」と言ったが、私の頭にパッと浮かんだのは「日本の国旗」と「日本列島の形状」だった。

友人にとっては、「日本」という言葉が情動と結びついていそうだ。しかし私は記号的である。夕焼けや四季そのものは私はすごく好きだが、それが日本という国と結びつかない。四季は四季、夕焼けは夕焼けだと思ってしまう。

女子小学生に話を戻そう。

すこし問いを変えて、「圧倒的にかわいくて自信まんまんの女子小学生になりたいか?」ならばどうなのか。部屋のすみにうずくまる女子小学生ではなく、元気はつらつでかわいくて、自信まんまんの女子小学生。周囲にはチヤホヤされている。これならどうか?

そう考えると、やはり、なりたくない。まず、私は自分をチヤホヤしてくる人間が怖い。その人間は、たぶん自分のことなんか本当は見てないんだろうなと思う。興奮剤として利用されるような感覚。気軽に飲み干されるリポビタンDの気持ち。

あと、「かわいくて自信まんまん」と言われると、普通に「イヤな女だな」と思う。これはまあなんというか、大人げない気もしますけど。女子小学生に思うことかよ、という反論も浮かびますけども、しかし、イヤな女にはなりたくないでしょう。

私はバッタになりたい。

石の上にとまって、夕焼けといっしょに触覚をゆらす。


精神が肉体を凌駕しちゃいました

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筋トレをはじめて最初の一週間に失敗した。しゃにむにダンベルを持ち上げていた。文字にすれば「うおおおおおお!」という感じ。非常に興奮していた。すごく鼻息が荒かった。そして数日、いやな痛みが残る。心地よい筋肉痛ではなく、筋肉がズタズタになったような不快感。やりすぎだったんだろう。

以前から思っていたが、久しぶりに筋トレをしたとき、たいてい、やる気がみなぎりすぎて失敗している。やる気が持続しないんじゃなく、「突然やる気になりすぎる」のである。それで過剰にトレーニングし、身体を痛め、次のトレーニングができなくなり、習慣として根づく前にやめてしまう。

運動不足の状態でとつぜん激しい運動をすると、アドレナリンだか何だか知らないが、とにかくそういうものがドバッと出て、気分がとてつもなく高揚し、「今の俺は誰にも止められないッ!」と確信するんだが、止めてもらったほうがいいんだろう。絶対に止めてもらったほうがいい。トレーナーがいると、こういうときに止めてくれるのかもしれない。あんた身体こわしますよ、って。

中学生の時、『るろうに剣心』というマンガで、「精神が肉体を凌駕しはじめたか……」という表現をみた。そこでは、怒りと憎しみによって感覚が麻痺し、血まみれのまま平然と戦い続けるキャラクターが描かれていた。あの場面が大好きだった。俺だって、俺だって精神が肉体を凌駕した状態になってみたい!

しかし、貧弱な肉体しか持たない私は、じつは簡単に精神が肉体を凌駕しちゃうんじゃないか。興奮しながらダンベルを持ちあげるアレ、まさに「精神が肉体を凌駕した状態」だろう。ぜんぜん思ってたのとちがう。もっとかっこいいものだと思っていた。「うおおおおお!」とダンベルを持ちあげる私をみて、「精神が肉体を凌駕しはじめたか……」とつぶやくやつはいるのか。

あのマンガでは、限界をこえて戦った後、時間差で肉体に反動がきて、はげしく嘔吐していた。数年前、もっとも運動不足だった頃、私はひさしぶりに自転車をこいでブックオフに行き、帰宅直後に嘔吐したことがある。杉松に「よ、よわ……」と言われていた。あれもまた精神が肉体を凌駕した状態な気がしてきたが、こんなもん、何でもありじゃないか。おちょこのような肉体。すこしの水でどばどば溢れてしまう。

その後、負荷をかけすぎないように意識して筋トレを再開した。三ヶ月ほど続いているが、やる気はみなぎっていない。すごく淡々とやっている。肉体はそれなりに変化した。なるほど、と思った。やる気、べつに要らないじゃん。この発見は新鮮だった。「誰にも止められないッ!」とか思う必要はなかったのか。

なにかを継続するために大きな興奮は必要ではなく、それどころか、長期的には邪魔にすらなるんだろう。またひとつ学習した。そもそも、どれだけ身体を鍛えようが、タンクローリーと相撲をとれば死ぬ。淡々とやりましょう。

ネコと仲良くするさまざまな方法

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月に一度、杉松の家に行っている。そして5匹のネコたちと再会する。ネコたちは私のことを完全に忘れてはいない。しかし住んでいた時の態度とも微妙にちがう。少しだけよそよそしくなっている。その態度にショックを受ける。

何度か帰るうちに分かってきた。ネコは私のことを「○○してくれる人」として認識している。だから久々に登場したときは反応がうすい。しかし住んでいた当時によくしていたことを試してみると、一気に思い出してくれる。これが、たまにしか会わないネコと関係を維持するためのテクニックなのである。

具体的な方法がネコごとにちがうのも面白い。たとえば、セツシと菊千代という二匹のネコは棒をふって遊ぶと思い出してくれる。なんとなく小学生男子といった風情だ。ネズミのオモチャを投げてやることも効果的だ。うれしそうに走っていき、くわえて持ってきてくれる。「オモチャで遊んでくれる人」として私を認識しているんだろう。

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影千代というネコは簡単である。何もしなくても勝手に股ぐらに顔をうずめて寝る。久しぶりだろうが何だろうが関係ない。私が玄関をあけて居間にすわると同時に股に飛び込んでくる。これはあまりいないタイプのネコである。警戒心がまったくない。ジョンレノンのイマジンを胎教で聴き続けたかのような性格。

以前、ガス屋のおっさんや水道修理のおっさんが家にきたときも、他のネコは警戒してあちこちに隠れていたのに、影千代だけがおっさんの股ぐらにめがけて突進していた。影千代との関係に「維持」という意識は不要だ。股間さえあれば寄ってくる。

もっとも、満足すると勝手に去っていく。このあたりのマイペースぶりは非常にネコらしい。あくまでも股ぐら目当ての関係なのだ。人間でいえば会うなりに股ぐらをもとめてくる男のようなもので、これはシンプルに最悪だろう。

去っていった影千代にこちらから近づき、手でさわろうとしたときのムスッとした顔はすさまじい。「なんか用かよ?」という態度をされる。背を向けてゴロンと眠る影千代を見つめながら、「ねえ、私たち、どういう関係なのかな」とつぶやきたくなる。股のにおいを嗅がせるだけの関係なんて、友達に説明できないよ。

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ミケシというネコは警戒心が強く、ひさしぶりに会った私を疑わしそうな顔で見つめてくる。しかし、尻尾の付け根を指でトントンすると思い出してくれる。他人行儀だったのが、途端にフニャーと甘えてくるのだ。これはメスネコの特性らしく、オスはべつによろこばないそうだ。通称「尻トン」と呼ばれる。

同じくメスである初音も、尻をトントンしてやる必要がある。ただ、こちらはミケシよりややこしく、しばらく追いかけっこをしてやらないといけない。いきなり尻をトントンすると、ささっと逃げていくのだ。嫌がっているわけではない。すこし離れたところに逃げてから、こちらをくるっと振り返る。「来ないの?」ということである。

なので、まずはさんざん室内を追いかけまわし、「僕は本当に君の尻をトントンしたいんだ」と納得させてやる必要がある。誰の尻でもいいんじゃない、そんな軽薄な男だと思ってほしくない、君なんだ、君の尻だからトントンしたいんだ、と態度で示さねばならない。さらに、人間が本気で追いかけるとすぐに追いついてしまうため、小走りで初音との距離を調整しつつ、同時に必死感も演出せねばならない。

これを続けていると、最終的に、初音は押入れの奥にかくれる。私も追いかけて押入れに入る。そして暗がりのなか、他のネコたちからは見えないところで、こっそりと尻をトントンしてやる。この段階でようやく頭をこすりつけて甘えてくる。毎回、これをやる必要がある。ものすごく大変な女である。このネコにはaikoを聴く権利がある。

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このあいだ世話をしに帰ったとき、ミケシの尻をトントンしていて、ふっと視線を感じた。背後を見ると、初音がじーっとこちらを見つめていた。あれは非常にaiko的な状況だった。あたし(初音)はあなた(飼い主)を見ているが、あなた(飼い主)はあの子(ミケシ)を見ている。ネコの世界にもaikoはいるのだ。

もっとも、初音は自分が構ってもらえないと様々な方法で不満をアピールするんだが、そこにaiko感はない。飼い主の布団でいきなり放尿したりする。aikoリスナーを代表して言わせてもらうと、こんな行動はaiko的世界に登録されておりません。

ある意味かしこいとも言えるが、初音は飼い主のいやがることを的確に把握しているため、嫌がらせのクオリティが非常に高い。眠っていた時、枕から10センチのところにゲボを吐かれたこともある。「次は顔だ」と言われた気がした。冷徹な殺し屋のやりかたじゃないか。

台所のシンクにうんこされたこともある。食事と排泄という、人間ができるだけ切り離しておきたい二つを的確に結びつけてくるのだ。こう考えると、やはりネコはネコ、人間は人間という気もしますね。いくらなんでも、彼氏に構ってほしくてシンクにうんこする女いないでしょ。

アインシュタインと靴下の穴

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最近、服装をちゃんとしている。身だしなみに気をつかっている。もっとも、私の「ちゃんとする」の基準はとても低く、「穴のあいた靴下をはかない」とか、そういうレベルではあるんだが。

杉松の家に長く居候したことが役に立った。だめになった靴下やパンツを捨てることを学んだ。「消耗品」という言葉をしつこく言われた。衣類は駄目になるものなのだと、定期的に買い替えるべきなのだと叩きこまれた。

靴下やパンツには穴があく。スウェットには毛玉がつく。Tシャツの襟はだるだるになる。どの衣類も時がたてば色あせる。諸行無常! そうしたことを学習していった。

もっとも、以前から色々な人に似たようなことを指摘されていた。しかし改善しなかった。耳に入っても素通りしていた。杉松に言われ続けてようやく変化が起きた。なぜあんなに変わらなかったのか、今になって思うと、当時の私がアインシュタインのことを考えていたからじゃないのか。

ちょっと文の流れが唐突すぎるが、要するに、「アインシュタインとか、たぶん靴下に穴あいてただろ」と思っていたのである。「アインシュタインは絶対セーターが毛玉だらけだったはず」というふうに。だから自分も服装に無頓着でいいのだと、アインシュタインを盾にして考えていた気がする。我が軍にはアインシュタインがいるのだ、と。

特定の物事に異常に集中していると、靴下の穴やセーターの毛玉に無頓着になる。自分はそのような人間でありたい。そんな気持ちが隠れていたんじゃないか。だから人に靴下の穴を指摘されたとき、ひそかに喜んでいたんじゃないのか。すくなくとも、それを恥とは感じていなかった。だから平然としていた。

「めんどくさい」という時、その言葉のかげに、ひっそりと自分のこだわりが隠れていることはあるものだ。私は靴下に穴があいていることにこだわっていた。あれは怠惰であると同時に、「天才科学者のコスプレ」でもあったんだろう。そもそも、アインシュタインは靴下に穴があいていたことで歴史に残ったわけではないんだが、関係なかったのか。

「リップクリームとか塗らないわりに、くちびるカサついてないんですね」

先日、友だちにそんなことを言われた。しかしその日の朝、私は普通にリップクリームを塗っていた。それくらい私だってやる。乾燥は不快だからである。勝手に勘違いされている。そのことを教えると「上田さんでもリップクリーム塗ることあるんですか!?」とおどろかれた。

以前、鏡をみながら鼻毛を切っていただけで、「色気づいちゃって」と言われたこともある。そんなとき私が繰り出す定番のツッコミがあった。先日も即座に言った。

「いやいやいや、俺を何だと思ってるんだよ!」

しかし自覚した。このツッコミの裏側で、私はまったく別のことを思っていた。

「もしかして僕のこと、天才科学者だと思ってるんですか!?」

心の副音声はそう言っていた。はじめて聞こえた。はじめて心の副音声にチャンネルが合ったのだ。ずっと流れていた。この副音声はずっと流れ続けていた。私が知らないだけだった。チャンネルを合わせればいつでも聞こえた。

だから、いつも少しテンションが上がっていたのか。「俺を何だと思ってるんだよ!」と言う瞬間、血行がよくなっていた。グッと身を乗り出していた。小鼻がふくらんでいた。その理由が判明した。喜んでいたのだ。浮かれていたのだ。自己愛を刺激されていたのだ。またひとつ天才科学者に近づいてしまったと、相手の発言にウキウキしていたのだ。しかし自分でも気づいていなかった。副音声の存在を知らなかった。小鼻のふくらみとしてだけ表現されていた。心の副音声は、小鼻をとおして主音声とつながっている。

なぜ、くしゃみのあとに言葉を足すのか?

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くしゃみというのは、わりと細かく制御できる。あれは肉体の勝手な現象にみえて、意外とそうでない。くしゃみの予感から実際の発動までの数秒のあいだに制御は可能であり、意識的にせよ無意識にせよ、人はくしゃみをコントロールしている。

以前、私は、「へっくち!」とかわいく言えるのか試してみたことがあるんだが、普通に言えた。同時に、二度と言わないでおこうと決めた。成人男性の口から出るにはかわいすぎたからである。自分で自分のことが少し嫌いになった。くしゃみの仕方ひとつとっても、自分らしさは打撃を受けるということなんだろう。

おっさんは、くしゃみの後にチクショーと付ける。そんな話がある。「ハックション、チクショー!」というやつだ。実際に見たことはない。しかし自分の経験から、それが簡単なことだと予想できる。

ただ、私はくしゃみの後に何も付けない。その必要性を見出せないからである。なぜ、わざわざ言葉を付けるのか? 一種のアクセサリー感覚か? おっさんなりの自分らしさの演出か?

このあいだ、カフェにいたとき、近くのおっさんが豪快にくしゃみをした。そこは吹き抜けになっていて、天井が高かったため、しばらく空間にくしゃみの残響があった。

ハーーック、ショイッ!(ショイッ…ショイッ…ショイッ……)

すこしずつ小さくなっていくショイ。くしゃみにもエコーはかかるのか。そりゃそうか。あれはおしゃれだった。あれを自覚的に演出していたならば、かなりのおっさんだ。自分らしさの演出として、くしゃみにエコーをかける。チクショーと叫ぶよりも、ずっとすごい。尊敬してしまう。しかし天然だろう。

そういえば、長く同居していた杉松も、くしゃみの後に言葉を足すタイプの人間だった。彼女の名誉のために言っておくならば、杉松はおっさんではないんだが。

杉松の場合、「へっくしょい!」と言ったあと、「ヒシャア!」と言っていた。若い頃は「フスゥ!」だったらしい。「フスゥの時代は終わったんだよ」と言っていたが、私はそんなのが一時代を築いていたことすら知らん。

なぜくしゃみの後に言葉を付けるのかと聞いてみたが、杉松の返答は曖昧なものだった。考えたこともなかった、という顔である。モゴモゴしていた。ひざかっくんされるような問いに出会ったとき、人はこのような口の動きをするものだ。

しばらく頭をひねったあと、杉松は言った。

「合いの手かなあ?」

疑問形で答えを出していた。自分のくしゃみに自分で合いの手をいれるのか。一体どういうことだ。ハイ、ヨイショッ! ハイハイ、ヨイショッ! みたいなことか? もちつきか? もちつきとくしゃみの区別がついていないのか? ますます分からなくなってくる。それで興奮するのか?

「知らないよ! とにかく、おさまりが悪いんだよ!」

結局、よくわからないようだった。習慣だからやっているにすぎないのだ。フスゥの時代を経て、ヒシャアに辿りついたほどの女だというのに、無自覚なのである。謎は謎のままにしておけということだろうか。余談だが、杉松はくしゃみともちつきの区別はついているらしい(いちおう確認しておいた)。

かわいいは作れるけど作れない

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去年の秋、近所の並木道を歩いていた。すると木の葉が落ちてきた。しかし私は気づかずに、しばらく頭に木の葉をのせたまま歩いてしまった。

その結果、私は化け忘れたきつねみたいになっていたんだが、あのときの自分、異常にかわいかったんじゃないか。三十すぎた男の言うことじゃないが、頭に木の葉をのせたまま歩いちゃう俺、超かわいいと思う。

もしも女の子の頭に木の葉が落ちてくる瞬間を目撃したら、それだけで好きになってしまいそうだ。たとえば対面でカフェテラスに座っていて、向こうはうれしそうに何かを話していて、その頭にひらりと木の葉が落ちてくる。その一瞬だけで恋に落ちる自信がある。

その後、木の葉に気づいた女の子が、照れながら自分と視線を合わせたりすれば最高だ。私は空を見上げて、太陽に「ありがとうッ!」と言う。なんとなく、いちばん巨大なものに感謝したいので。

大学生の頃、彼女が部屋に泊まりにきた。真夏の夜だった。私たちは二人で床に寝そべり、彼女の持ってきたミッキーマウスのジグソーパズルを作っていた。われわれはひさしぶりのパズルに夢中になり、黙々と作りつづけた。

集中して二時間ほどが過ぎた。ふと横を見ると、彼女はパズルを作る姿勢のまま眠っていた。そして二の腕にパズルのピースが一枚貼りついていた。その瞬間、自分の中にある「好き」の質が変わる音がきこえた。二の腕にパズルのピースを貼りつけたままスッピンでねむる女が、とてつもなくかわいく見えた。

ぐうぜん木の葉が落ちてきたり、パズルのピースが貼りついていたとき、胸がときめく。かわいい、と感じる。しかし一方で、世の中には「かわいいは作れる」という言葉がある。このときに言われる「かわいい」と、ぐうぜん落ちてきた木の葉を見て感じる「かわいい」は何が違うのか?

一般性と特別性

「かわいいは作れる」という言葉を、私はうそだとは思わない。たしかに、かわいいは作れる。それは化粧や服装や表情の技術である。もちろん「かっこいいは作れる」と言い換えてもいい。かわいさにしろ、かっこよさにしろ、そこにはパターンがあり、自覚的な努力によって作り出せる。これは単純な事実である。

問題は、それがどこまでいっても「一般性」をこえないことにある。一般性はそもそものはじめから「みんな」で共有するために用意されている。それは個人的な関係のためには用意されていない。

一般性を極めていったときに生まれるのは、「誰にも文句の付けようのない魅力」であり、「大勢の人間にちやほやされること」であり、そのとき人は大量の好意的な視線にさらされながら、深い孤独に沈む。そこには「特別な関係」が何もないからである。そのことを知らなければ、長く苦しい努力のはてに絶叫することになる。

「自分がほしかったのは、こんなものじゃない!」

一般性と特別性のちがいを見失ったときに悲劇は生まれる。特別な誰かがほしくて、ただ一人の特別な誰かに認めてほしくて、一般的な価値観をもとに自分を磨きつづける。それは外見を磨くことかもしれない。年収や肩書にこだわることかもしれない。だがその先に「特別な関係」など待っていないのだ。

この世には二種類の「好き」があると言ってもいい。一般性の先に生まれる「好き」が「誰からも好かれるあなたが好き」だとするならば、特別な関係を生み出すのは「私だけが知っているあなたの好きなところ」だろう。

aikoへと向かう強い流れを感じる。激しい渦が文章を飲み込もうとしており、その渦の中心には常にaikoがいるのだ。一つ目の段落をまたいだ時点ですでに私はaikoのことを考えていた。抵抗することはできない。飲み込まれるしかない。私はaikoの話をしなければならない。

あたしだけが知っている
あなたの特別なとこ
心の隅において 時々開けるの

aiko『リズム』

aikoはいかにして特別性を歌ったか?

aikoという歌手は、デビューから一貫して「特別性」を歌い続けてきた人である。初期の代表曲である『カブトムシ』では、それは以下のような歌詞に表現されている。

息を止めて見つめる先には
長いまつげが揺れてる

aikoは本当にひんぱんに「あなた」を見つめるのだが、その時、見つめられる「あなた」が非常にささやかな細部としてあらわれるところに特徴がある。ここでは「揺れる長いまつげ」である。

なぜ、まつげが揺れていることが分かるのか。aikoが「あなた」の横顔を見つめているからである。「あなた」自身、自分のまつげが揺れていることに気づいていないのだ。その瞬間をaikoは息を止めて見つめる。これが、aikoの「好き」が生まれる現場である。aikoが恋に落ちるのは「あなた」が見せる無防備な一瞬なのだ。

2006年発表の『シーソーの海』では、この視線はさらなる進化を遂げている。

あなたの鼻先にとまる真夏の汗に恋をする

もはや「あなた」の身体の部位である必要すらなく、ただ鼻先にとまったというだけで真夏の汗すら恋の対象となる。これがaiko的視線のひとつの極みであり、aiko的世界の完成である。では、この視線が生んだ恋が成就したとき、愛し合う二人をaikoはどのように描写するのか。それは『ロージー』の歌詞を見ればわかる。

あなたとあたしは恋人なのよ
その八重歯も この親指も
全部二人のものだってこと

aikoが二人のものだとするのは、あなたの八重歯であり、自分の親指である。社会的に価値を認められていないささやかなものに、aikoは二人だけの価値を見出す。それがaikoの歌い続ける「特別な関係」である。

しかし、やがて特別な関係にも終わりの時がくるだろう。この残酷な認識もまたaiko的なものである。「あなた」は「あたし」のもとを去っていく。「あなた」は思い出のなかの存在となってしまう。『えりあし』という曲でaikoが歌うのは、恋人が記憶となった後のことである。そのとき、記憶のなかの「あなた」を、aikoはどのように描写するのか。

一度たりとも忘れた事はない
少しのびた襟足を
あなたのヘタな笑顔を

美容院で襟足をきれいに整えることはできる。魅力的な笑顔を身に付けるトレーニングさえある時代だ。しかしaikoの記憶に焼き付いているのは「少しのびた襟足」であり、「あなたのヘタな笑顔」なのである。aikoにとって「あなた」が他の誰とも替えがたいものになるのは、絶対に忘れられないものになるのは、特別な視線によって「あなた」を認識し、記憶するからである。

やがてaikoは別れた「あなた」と再会することもあるだろう。そのときaikoはどこに昔の面影を見出すのだろうか? そんなことは『気付かれないように』の歌詞を見れば一発で分かる。

今の彼女すごく好きだよと
照れて髪をさわる
昔のあなたを見た

照れて髪をさわる仕草に、aikoは「昔のあなた」を見つける。片想いのときも、両思いのときも、記憶となったときも、やがて再会したときも、aikoはつねに特別な視線によって「あなた」を見つめている。その先にあるのは揺れる長いまつげであり、鼻先にとまる真夏の汗であり、八重歯であり、親指であり、少しのびた襟足であり、ヘタな笑顔であり、照れて髪をさわる仕草である。

これらは果たして「作れる」か?

問うまでもない。aikoの視線の先にあるのは常に「作れないもの」なのだ。作れないものだから「あなた」は固有性を獲得する。特別なものになる。自分にとってたいせつな存在になる。これがaikoの歌い続ける「恋愛」である。これがaiko的世界における「恋愛」の定義である。だからこそ私は、aikoという思想のひとつの受肉としての私は、断固として言わなければならない。かわいいは作れるが、作れないのだと。

 

発声と健康

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現在、日常において声を発する機会がない。文を書くことが生活の中心にある。人と会わなければ声は不要である。そして分かったのは、声を出すことは健康によいという単純な事実だ。失なってはじめてわかる、声を出す機会の大切さ。

コンビニ店員と最低限のやりとりをする。あたためますかとたずねられて、はいと答えるとき、自然と声が出ないことにおどろく。「はい」と言ったつもりが、「すぁい」みたいな、かすれ声しか出ない。声もまた筋力と同じように衰えるのだ。

そのことに気づき、次はすこし大きめに声を出してみるんだが、今度は極端に元気のよい声が出てしまう。「ハイッ!!!」というふうに。声量のコントロールがバカになっている。あんなものは、新兵が上官に命令されたときのハイだった。おまえは上官に弁当をあたためてもらうのか。

接客業をしていた頃は、毎日大声で挨拶していた。私がちゃんと接客をする人間であることも大きい。接客用の別人格を用意して、それを自動操縦にしておく感じ。当時は何も思っていなかったが、あれは健康にとって最高だった。毎日六時間ほどあちこちを動きまわり、数分に一度は大声で「いらっしゃいませ!」と叫ぶ。合法的にそんな健康なことができて、しかも金がもらえる。

文章と健康

文を書くことと健康の関係にも興味がある。日常的に文を書くこと、それを職業的なものにすることは、当然、人付き合いをへらすだろう。運動もへるし、発話もへる。座りっぱなしである。

『徒然草』の序段に、「つれづれなるままに、日くらし硯に向かいて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ」とあるが、これを適当に現代語っぽくしてしまえば、「ひまをもてあまして一日中パソコンに向かい、心に浮かんでくるどうでもいいようなことをなんとなく書き続けていると、やばいくらいに頭がおかしくなってくる」ということじゃないのか。

最近、色々と古い小説を読み返しているが、漱石にしろ、太宰にしろ、芥川にしろ、読んでいると「このひと体調悪そうだな」と思う。とくに後期になるほど顔色が悪くなっていく印象だ。それが作品として良くないとかそういう話じゃなく、むしろこの三人の文章はどれも好きなんだが、もっと素朴な感想として、単純に元気がない。大音量で音楽をながしながら河原でバーベキューをしていそうな文体ではない(そんな文体はあるのか)。

文章には体調が出る。このへんの問題に気づいたのが、三島由紀夫(ボディビル)だったり、村上春樹(ランニング)だったりするんだろうか。ここで選ぶ競技にも個性が出そうだ。三島由紀夫はその都度ポーズをきめていくような文章を書くが、村上春樹の文は先へ先へと進んでいこうとする。

ネコには税金がない

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数年前、マイナンバーの通知が届いて、杉松が小部屋まで持ってきてくれた。なぜかセツシも一緒にピャーッと走ってきた。

「ネコにはないよ!」

即座に言われていた。その通りだと思った。ネコにマイナンバーはない。ネコは国民ではないからである。あの家に住んでいた七体の生き物のうち、マイナンバーを受け取る資格があるのは二体だけであり、残りの五体にマイナンバーは与えられない。

そのかわり、ネコには税金を払う義務もない。源泉徴収もない。ネコの拾ってきた石ころ、草、昆虫などは、そのままネコのふところに入る。国はその一部を取ろうとしない。そう考えると、ネコというのはさすがに、いいご身分である。

むかし、初音とセツシが二匹でがんばって縁側にいた蛾をつかまえようとしており、最終的にはセツシが仕留めて自慢げにいじくっていたことがあったが、国は知らんぷりである。あれの一割をほしがらない。我が国の財政が厳しいことを考えると、これは非常にもったいないことである。ネコの収入の一割でも国庫におさめることができれば、状況は違ってくるんじゃないか。

所得税だろうが、消費税だろうが、ネコは見事に税の網の目をくぐりぬける。そして、きんたま丸出しで耳をかく。これは本当に、いいご身分である。やはり、税金の無縁の存在だからこそ、床に寝転がって腹を丸出しにしてゴロゴロと転がったりするんだろうか。

すこし前に、私は確定申告の作業を終えたが、ああいう作業をしていると眉間のあたりがグーッと加熱してきて、とても腹丸出しでゴロゴロ転がる気になれない。あるいは、現実逃避として腹丸出しでゴロゴロ転がりたくなる。しかしネコは現実逃避としてゴロゴロ転がっているわけではなく、ありのままの現実としてゴロゴロ転がっている。この差は大きい。

そういえば私も、無職の居候としてかぎりなく税金から遠い位置にある日々を送っていたときは、床でゴロゴロしていた気がする。めくれたTシャツから腹だって出ていた。丸出しではなかったぶん、ネコには劣るか。きんたまもしまっていたし。


直方体の部屋をエアコンでキンキンに冷やしたい

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去年の夏、新居の冷房を使った。非常に効きのよいものだった。といっても、べつに特別な冷房ではない。ワンルームに備え付けられたふつうの冷房である。むしろ部屋の形状の問題だろう。私は冷房が素直にきく空間に感動していた。

というのも、長く居候していた杉松の家は古い日本家屋であり、構造上、あまりエアコンが効かなかった。庭、縁側、居間、台所とゆるやかにつながっており、エアコンの冷気があちこちに散ってしまう。いまいち冷えた気がしない。

だからあの頃、私と杉松はすぐに「この家が直方体だったら……」と言っていた。直方体の部屋をエアコンでキンキンに冷やしたい。それがわれわれの切なる願いだった。

ちなみに、私が転がりこんだ当初、杉松の家にはエアコンさえなかった。扇風機だけでなんとかしていた。その扇風機も非常に古く、半分壊れているようなもので、プロペラの回転は異常に遅かった。「強」に設定して、ようやく「弱」ほどの回転を見せる。

ちなみに「弱」に設定すると、すこしだけプロペラが回転したあと、ゆっくりと停止していた。あれはひどかった。ことばの真の意味で「弱」だったとも言えるが、真の意味で弱い扇風機には何の価値もないことを知った。

その後、杉松はエアコンを購入した。「人間が二人になって家が暑くなった」と杉松は言った。人間の肉体というものがいかに熱を発しているかを淡々と述べられた。私は家に転がりこんだ身として恥じたものだった。恥じただけで電気代は払わなかったんだが。

杉松はエアコンの説明書を読み、だいたいの機能を把握した。初日の夜、「ねむリズムだよ!」と嬉しそうに言っていた。そういう名前の機能があるらしい。寝る時は「ねむリズム」に設定するとよいとのことだった。新しい言葉を与えられたときのわれわれの反応は二才児と同等である。その語感を気に入り、しばらく、ねむリズムという言葉を連呼していた。

以降、杉松は夜になるたびにリモコンをピッとやってねむリズムに設定し、「ねむリズムだ」と言っていた。その顔は非常に満足げだった。だが結局、ねむリズムの効果がどうだったのかは覚えていない。言葉のひびきの面白さだけを記憶している。メーカーとしてはどうなんだろう。ネーミングだけ気に入られても困るんじゃないのか。

その後、私はアパートで一人暮らしをはじめ、夏と冬を一度ずつこえた。アパートの部屋は見事な立方体である。引越し後しばらくはすさまじい密閉空間にいる気分だった。古い日本家屋からワンルームに引っ越すと、あまりのちがいにおどろいてしまう。完全な幾何学の世界。概念に住んでいる状態。だからこそ、室温をコントロールしやすいということなんだろう。もうすぐ、概念で暮らす二度目の夏がくる。

ゴッホの絵を見るとクレープが食べたくなる

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先日、杉松とふたりでゴッホ展に行った。京都国立近代美術館でやっていた。それで実感したが、ゴッホのなまの絵を見ることはものすごく疲れる。すさまじく疲労した。昼食をとってから絵を見たのに、美術館を出た後、二人とも甘いものが食べたくなっていた。

なぜこんなに疲労したのか、杉松と話し合った。杉松は「頭のおかしい人の話をずーっと聞いたあとみたいな気持ち」と言った。たしかに、と思った。ガーッと脳の処理能力を使わされた感覚。この世でなにが危険かって、伝達能力をぎりぎりのところでそなえた狂人ほど危険なものはない。

アントナン・アルトーに「ヴァン・ゴッホ」という文章がある。アルトーのこの文章も、脳の処理能力を要求してくるという意味で、ゴッホの絵に似ている。たまにそういう類の文章がある。なお、私の手元にあるのはちくま学芸文庫のものである。

河出文庫の『神の裁きと訣別するため』にも同じ文章が収録されていて、こちらのほうが入手は簡単そうだが、私はちくまの訳が好きである。河出のほうは、ちくまよりも読みやすく訳されている印象。ちくまの訳文はねじれており、読んでいて疲れるんだが、その疲労感が、ゴッホの絵を見ることの疲労感に似ていてよいと思う。

美術館を出た。ゴッホで疲労したわれわれは甘いものを食べることで同意した。目についたクレープ屋に入った。私はバナナ生クリームにするつもりだったが、おごってやると言われたので、バナナ生クリームチョコに変えた。杉松が「いちばん高いの!」と言った。私は、おごりだと知った途端にいちばん高いのを注文するような男である。

近くのベンチにすわって食べた。その後、「じゃそろそろ行こっか」と言った杉松のくちびるにチョコレートがべったり付いていたので爆笑してしまった。そんな状態でどこに行くつもりなのか。どこに行っても笑われるべったり具合。三十すぎの女にあるまじきワンパクな口元。

しかし、爆笑する私のくちびるには生クリームがべったり付いていたという。即座に指摘された。われわれは互いの顔を確認し、チョコレートと生クリームをきれいに拭き取ってから解散した。幼稚園児のつどい?

便器を見て興奮する

そういえば、ゴッホ展は美術館の三階でやっていたが、四階のコレクション・ギャラリーも同じチケットで見ることができた。こちらはゴッホとはとくに関係がないようだった。せっかくだし、という程度の薄いモチベーションで予備知識もなしに入ってみると、いきなりデュシャンの便器が置いてあってビックリした。

「デュシャンの便器」という言い方も我ながらひどいですけど、正式には、マルセル・デュシャンが1917年に発表した『泉』という作品ですね(ウィキペディアによれば)。

こんなに有名なものがあるとは思わなかったので、完全に不意を突かれた。感覚としては、ふらっと入った美術館にモナリザがぽーんと置かれていた感じ。われわれは「まさかあの便器が見れるとは」と興奮していた。便器を見て興奮する人間。コンセプチュアルですねえ。

帰宅後、本当にあれはデュシャンの便器だったのかと疑問に思い、調べてみた。どうやら展示されていたのは1964年の再制作版らしい。オリジナルはすでに紛失しているようだ。「オリジナルじゃなかったのか……」とがっかりしたが、そもそも、オリジナルからして既製の便器である。この状況における「がっかり」の根拠は何だ。

 

ヴァン・ゴッホ (ちくま学芸文庫)

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自称aikoのどうしようもなさ

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ストロー(初回限定仕様盤)

あいかわらずaikoを聴いている。

というか、この書き出しはもはやこの日記において、「あいかわらず酸素を吸っている」くらいの意味にしかならない気もするが、あいかわらず聴いている。何度聴いても、自分のことを歌っているとしか思えない。私の中にはaikoがいる。

はじめのうち、自己の内側にaikoを感じることは特殊な体験のように思えるが、やがて慣れて気にならなくなる。すると自分がaikoであることはただの常識になる。一月の次に二月が来るように、私の中にはaikoがいる。だからこの日記でも当然のように、俺はaikoだ、俺はaikoだと繰り返してきた。

しかし、人に会うとだめだ。

先日、ブログを読んでいる知人に、「上田さんは自称aikoですもんね」と言われた。それでひさしぶりに客観的な立場から自分を見た。これはやばい。自称アイドルや自称クリエイターと比べても、自称aikoのやばさは飛び抜けている。だって自称aiko、絶対にaikoじゃないでしょ。自称アイドルと言われたとき、12%くらいは「ほんとにアイドルなのかも」と思いますよ。しかし自称aikoはガチの0%。絶対にaikoじゃない。

なにかの拍子に私が逮捕されたら、京都在住の自称aikoこと上田啓太容疑者(34)とかニュースに流れるのか。やばいですね。世間にいじり倒されて、グチャグチャにされる。絶対に悪いことはしないでおこう。

自称aikoが捕まるとしたら何なのかを考えていたんだが、テトラポットに登って飛び跳ねているところを取りおさえられる、とかだろうか。あまりに不審なので近隣の住民に通報される。そして警察で意味不明な供述をする。「夏の星座にぶらさがって上から花火を見下ろそうと思った。星座があんなに遠くにあるものだとは知らなかった」。

権威としてのaiko

これも人に指摘されて気づいたんだが、気心のしれた相手と会話していると、私はほとんど自動的にaikoの話をはさみこんでいる。「それはaikoが曲中で歌ってます」とか、「あなたのその感情はまさにaiko的なモチーフです」というふうに。相手はべつにaikoのファンでもなんでもないんだが、関係ない。無差別にaikoをまき散らしている。

恋愛にかんする議論になると、私はaikoの歌詞を引用したあとで、すべての議論が終了したような顔をするらしい。ほとんど聖書でも引用するかのように、aikoの歌詞を引用している。aikoのおことばが登場して議論が打ち切られる。しかし相手からすると、aikoの歌詞はべつに究極の真理でも何でもないため、その唐突な勝利宣言にあぜんとさせられるという。

西欧のほうの学者の本では、やたらと聖書やらプラトンやらが引用されることがあるが、どうも私は、それに似た効果をaikoの歌詞に期待しているんじゃないか。権威づけとしてのaiko。あるいはトランプにおけるジョーカー。手札にあるaikoを出せば、自動的に勝利できると思っているのか。

私は、aikoのよさがわからないと人に言われてもまったく動揺しない。もはや他人の言動で自分のなかのaikoが揺らぐことはない。それはいいんだが、aikoのよさがわからないと言われたとき、私が優しく励ましてくるのがむかつくという。「大丈夫、いつか分かるようになりますよ」と、天然の上から目線でなぐさめてくるらしい。

自分の中の絶対的な軸が定まってしまったため、他の人間をすべて「いまだaikoに至れない人々」と認識してしまう。これは要するに、街角でとつぜん祈らせろと言ってくる人のようなもので、非常にろくでもない状態だと思うんだが、改善がむずかしい。他人の発言を罪の告白のように受け取ってしまう。aikoを聴いていない人のことを想像するだけで、「大丈夫、そんなあなたの中にもaikoはおられます」と、優しい気持ちがこみあげてくる。一体、なにが大丈夫なんだか。おまえの頭のほうが大丈夫か。

突然、ネコはチンピラの顔をする

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かわいいと思って油断していると、突如、チンピラの顔をする。それがネコという生き物である。肉食動物としての根っこが出ると言えばいいのか、透明感で売る女優がのぞかせる元ヤンとしての素顔と言えばいいのか。とにかくネコと暮らしていると、唐突にチンピラの顔をされて驚くことがある。

あるとき、初音が玄関で私のコンバースをいじくっていた。ひもがあるのが面白いんだろう。私のコンバースは定期的にネコたちに蹂躙される。コンバースをクッションにして寝ることもあれば、ひもを噛んでいることもある。私も慣れたものだから、好きにしなさいという態度で写真を撮っていた。

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その後、別のネコもやってきた。ヒモで遊ぶのはやめて、二匹でのんびりとしていた。牧歌的な光景がそこにはあった。私はそのまま写真を撮り続けていた。しかし次の瞬間、何のまえぶれもなくチンピラが登場した。

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これだ。これが唐突に出てくるチンピラである。何の伏線もない。

どのあたりにチンピラ感があるのか。黒目が小さくなる。口が開いて細かい歯が見える。顔が長くなるのも大きいんだろう。ヒョウやトラもネコ科なんだと思い出す。内に秘めたるチンピラの素顔。

とくに、この初音というネコは、普段は目もクリクリしており、飼い主が言うほど馬鹿なこともないが、かわいいネコなのである。他のネコたちとくらべても目がまるく、体型もギュムッと縮んだかんじ。それが半年に一度くらいの頻度で、チンピラとしての素顔をみせる。カナブンくらい余裕で食べまっせ、という顔になる。カメラがそれをおさめる。

ネコには、チンピラとしての側面を見せないようにしようという自意識がない。そのため、チンピラ化は常に唐突である。そして何事もなかったかのように、スムーズにふだんの顔にもどる。それがネコという生き物であり、そして飼い主というのは、そのギャップにいちいち興奮する生き物なんだろう。

その後、二匹はコンバースの上で遊びはじめた。テンションが上がったのか、最後はもみくちゃになっていた。こうなると、私のコンバースはただの闘技場である。あっさりと、バトルフィールドとして扱われてしまう。履き物なのに。

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こういうときはチンピラにならない。不思議だ。首筋に噛みつかれているのに、ぬいぐるみのような顔のまま。なんの感情も見てとれない。今こそ、チンピラになるべきじゃないかと思うが。「なに噛んどんじゃワレ」という顔をしろ。私はあの顔を知っている。

最近の仕事まとめ2018年春

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最近の原稿仕事をまとめておきたい。定期的にこういうことをしたほうが絶対にいいからである。まとめをさぼるのはよくない。ということで、今年の一月から四月にかけてブログ以外に書いていたものをまとめます。よろしくお願いします。

GINZA

まず、GINZAの五月号にファッションに関するコラムを書いた。発売後、「なんであんなおしゃれな雑誌におまえの文章が載ってるんだ」と各方面から問い合わせがあったが、その理由をいちばん知りたいのは私なんですよね。ほんとなんで?

なお、「ファッションに関するコラムを書いた」とかごまかしてるが、「黄色のパンツに白のシャツを着ると配色がソフトクリームと同じになるので大変だ」みたいなことを書いただけだ。ほんといいのか。知的な服ってなんだろう、って書いてあるのに。

マンガ再読

マンバ通信のマンガ再読連載をたくさん書いた。とくに反響が大きかったのは、島耕作の話と、孫悟空について。

それにしても、この連載をはじめてからドラゴンボールという作品のすごさをあらためて実感している。いろいろと次の原稿を用意しているんだが、ドラゴンボールにかんするものが異常に多い。この年齢になって気づいた。いちばん好きなマンガ、ドラゴンボールだ。小学生男子みたい。

自分のなかで、ドラゴンボールとaikoが同じところに入りつつある。それについて書こうとすると自動的に大量の文が出てくる、という意味において。

まったく共通点のない二つの気もするが、しいて言うならば、「変人のはずなのに平然とメジャーで活動している」というところだろうか。鳥山明にしろ、aikoにしろ、ものすごく変な人で、メジャーになる人間とは微妙にずれたところにいるんだが、持ち前の人なつっこさなのか何なのか、しれっとメジャーのド真ん中にいる。そういう存在に自分は弱い。

音楽コラム

音楽関係のコラムを2本書いた。aikoについてと、スピッツの草野マサムネについて。どちらも歌詞に関するものである(というかそれしか書けない)。

記事を読んだ女性のかたから「自分の気持ちが理解できました」という感想をもらって非常にうれしかったんだが、その反面、34歳の男が書いたもので理解しちゃっていいのか、と不安にもなった。草野マサムネの記事なんか、「女子は○○なのです」というふうに、やたらと「女子」を主語にして書いてるんだが、たんに自分のことを書いてるだけですからね。「なぜ私は草野マサムネの歌詞にときめくのか」だとあまりに意味がわからないので、女子を隠れみのにしてるだけ。女心は全然わかりません。私にわかるのは私の心だけです。

楽天それどこ

楽天それどこでは、2万円で部屋に色々なモノを買う企画をした。「殺風景な部屋」から、「やや殺風景な部屋」に変身できたと思う。そんな中途半端な変身でいいのかと思いますが。あと、役立つ情報がゼロなことに自分でも笑ってしまう。「カーテンは大事」とか書いている。それ、たいていの人類は知ってる。

ケイクスで新連載

ケイクスで「新しい人間観察」という連載がはじまった。有料のサイトだが(150円/週)、特定の記事が無料で公開されることもあるようす。しばらくは毎週更新される。初回のタイトルは「自意識のない美人に出会った」で、これはすでに公開されている。次は「鼻息でコミュニケーションする日本の男たち」という記事が公開される予定。こうして書いてみると、へんなタイトルの文章ですね。

noteで文を売っている

ちゃんと告知するのを忘れていたんだが、すこし前からnoteで昔の文章を売っている。「note」というのは説明がむずかしいが、文章を有料で売ることのできるサイトなのです。

なにを売っているのか。まずは真顔日記の初期のもの。ブログではすでに非公開にしているが、これを編集したものを売っている。あとは大学生の頃に書いていたウェブ日記を編集したものを販売中。どれもけっこう売れていて、これがうれしい。読んだ人にじかに金を出してもらえると、ものすごく励みになると分かった。いまさら気づくことかと思いますが。

note:日記アーカイブス

以上

以上です。次は夏の終わりにでもまとめます。新たに寄稿したものはブログ下部の「最近の仕事」で随時紹介しています。ツイッターとフェイスブックでも紹介しています。アカウントを持っている人は何も考えずに下の二つをフォローしてください。何も考える必要はありません。それではまた。

Twitter:@ueda_keita
Facebook:uedakeita316

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