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真顔日記の2016年人気記事まとめ

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今年よく読まれた記事をまとめました。

Google Analyticsで「2016/1/1〜12/27」に設定して、ページビューの多かった順に並べてます。一位でだいたい30万PVくらい。

年末年始のおともにどうぞ。

1位

現実には、いまでもファミリーマートに抱かれる日々が続いています。妄想は問題を解決しないのかもしれません。

2位

自分で言うことじゃないですが、パン屋のおばさんの一言だけでよくこんなに書けるよな、と思いました。

3位

これは自分で読み返して後半の展開に感心しました。まあ下ネタなんですが、下ネタとしてよくできている。

4位

aikoです。

5位

来年、このへんの話を掘り下げる連載がはじまります。深津をほめるおじさんを掘り下げるおじさん。なかなかの地獄感。

6位

aikoです。

7位

2015年の記事なんですが、今年だけでもかなり読まれている。やはり稲葉浩志という人の圧倒的なキャラ立ちのおかげだと思います。B'zファンの方によると、実際の稲葉さんはこんな人じゃないそうですが(ほんわかした人らしい)。

8位

aikoです。

9位

この記事は美容師の方にウケてて笑いました。そのうち実際に悟りをひらいた美容師が出てくるかもしれない。絶対行かない。

10位

ソーシャル時代にマッチしたインパクトのあるタイトルではないでしょうか。何目線のコメントなのか分かりませんが。

総評

10本のうち3本がaikoに関するものでした。これは100%、aikoの力ですよね。さすがだと思います。

11位以下で気に入ってるのはこれ。 

「言いがかり」の見本として飾っておきたい内容だと思いました。

来年もこのブログでは、広く読まれる記事や、そこそこ読まれる記事や、ぜんぜん読まれない記事など、幅広く書いていきたいと思っております。よろしくお願いいたします。

明日は寄稿のほうをまとめます。


上田啓太の2016年寄稿記事まとめ

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今年の三月頃から、このブログ以外にも文章を書くようになりました。定期的に書いている場所と、それぞれの代表的な記事をまとめます。始まった順。

ジモコロ

www.e-aidem.com

「この六年のひきこもり生活で実験してたことを書く」くらいのテーマで始まりました。あとは「真顔日記とちがう雰囲気のものを」という裏テーマ。いろいろと試行錯誤してたんですが、2000連休の記事で全体の見取り図を出せたと思います。この記事のそれぞれの段階、とくに第四部以降についてさらに詳しく書いていく予定。

BASEMENT-TIMES

basement-times.com

音楽に関するコラム(aiko以外)を載せてもらってます。このブログだとaiko以外に音楽があることを知らない人間みたいになってますが、一応、他にも音楽と呼ばれるものがあることは知ってるので……。いちばん読まれたのは「RADWIMPS恋愛ベロベロ記事」だと思うんですが、ここではトリセツのほうを薦めておきます。

ITmedia

www.itmedia.co.jp

「あの頃のインターネット」について。具体的には1999年頃のネットの思い出を書いてます。ちなみに編集の方は、「上田さんが高校生の頃にやってたホームページ、見てました」という怖ろしい文章で依頼してくださりました。何がどこで仕事につながるのか、マジでわからんものです。

Books&Apps

blog.tinect.jp

とくにテーマの縛りはなく自由に書いていいとのことなので、自由に書いてます。強い意志でアヒル口を維持する女を見かけて考えたこととか、ゴシップは固有名詞をすべて「人間」に変換してしまえば無意味になるとか、役に立つのか立たないのか、深いのか浅いのか、よく分からない感じでいければ。

マンバ通信

magazine.manba.co.jp

マンガに関するコラム連載。とくに「再読」に重点を置いてます。ドラゴンボール、スラムダンクなどの有名マンガを中心に、過去に読んだものを再読していく予定。草稿をダーッと作ってみた感じでは、井上雄彦と新井英樹について書くことが増えそう。

街角のクリエイティブ

www.machikado-creative.jp

いちばんアホらしい連載。「茶漬けをすすめればいいのでは?」じゃないよと自分でも思う。なにをちょっと良いこと思いついたみたいな口調で言っているのか。今後も淡々とこういうことをやっていく予定。

その他の記事

これ以降は単発で書いたものです。

srdk.rakuten.jp

www.tensyoku-hacker.com

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寄稿情報

寄稿したものは、スマホ版メニュー右端の「仕事」でまとめてます。パソコン版では「寄稿情報」と表記されてますが、飛ぶページはいっしょ。ちなみにTwitterとFacebookでも告知してるので、どちらかをフォローしていただくといちばん早い。

Twitter:@ueda_keita

Facebook:uedakeita316

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「こいつに何か書かせてみたい」と思った方は下記アドレスまでどうぞ。

pelicanmatch@gmail.com

テーマや各種条件を添えて依頼していただければ、三営業日以内に返信いたします。

なお、営業日と言ってみたかったんで書きましたが、私の生活にそんな概念はありません。普通に三日以内に返信します。土日とか知りません。

それでは、みなさんよいお年を。

説明不能の笑いのつぼについて

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同居人が問診票に色々と記入していた。会社で健康診断があるという。

私は物珍しさで見ていた。すると「よく食べるもの」の欄に、同居人は「アメやチョコなど」と書いていた。それで私は笑いがとまらなくなった。自分でも何がつぼに入ったのか分からないんだが、ヒイヒイ笑った。「だって、正直に書かなきゃダメでしょ!」とキレられましたが。

これには逆のパターンもあって、以前、私がビニールぶくろにパンを三ついれて居間を歩いていたときは、同居人のほうが爆笑していた。「パン買ってる、パン買ってるっ!」と言っていた。自分が笑われる側になると分かるが、なんなんだと思いますね。

ただ、私も少しだけニュアンスを理解できてしまうところがあって、「人がビニールぶくろにパンをいれているだけで面白い」という感覚はある。非常にせまいものだが、私と同居人は共有している。「あまりにも当り前な当り前」が、その当り前さゆえに面白くなるとでも言えばいいだろうか。

高校の頃、みんなが教室で弁当を食べているのを見て、全員の口元がモグモグしていることがつぼに入って仕方ないことがあった。それぞれに複雑な内面があり、ややこしい人間関係もあり、元気な奴や暗い奴、スポーツのできる奴できない奴、家庭の経済状況もさまざまで、なのに全員、口がモグモグしている。モグモグのもとに全員が集まっている。なんなんだこれは、と思っていた。

どしゃぶりの雨が降っているとき、窓の外を眺めながら「ウソつけよ」と思うこともある。雨というのは一定の量をこえると冗談にしか見えなくなるもので、ズババババッみたいな音をさせながら大量の水が落ちているさまを見ていると、むかし理科の時間にならった雨雲の仕組みなんかも全部ほっぽりだして、ただただ「ウソはやめろ」と思う。「冗談がすぎるぞ」と思う。そして、このときも笑いがある。

タイトルに「説明不能」と書いておいてなんだが、無理やりに説明を付けるならば、これは世界の未知性があからさまになる直前の心理的防衛反応だと言える。食事や降雨。そういった日常的な現象に対し、一時的に異星人のような気分になってしまい、その不安をしずめるために笑うのである。

もっとも、冒頭に書いた「アメやチョコなど」だけは、ちょっとちがう気がする。これはたぶん、「アメやチョコなど」という響きが絶妙にバカっぽかっただけ。アメやチョコをよく食べていると医者に報告する女に笑っただけ。そりゃ同居人にキレられますね。

談話室におけるネコたちのガールズトーク

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f:id:premier_amour:20170112210131j:plain

ネコというのは、気温に敏感に反応する。だからネコを飼っていると、季節のうつりかわりをネコのねむる場所で気づくようになる。木々の色づきでも、風の香りでもなく、ネコの寝場所である。風情があるのかどうなのか。

夏、ネコたちは個人主義者である。それぞれの好きな場所で、腹を出して寝る。くっつくことは少ない。単純に暑いからだろう。家のあちこちに散らばっている。そこで求められるのは冷んやり感である。フローリングが人気である。

しかし秋冬はちがう。肩を寄せ合う。ぬくもりのもとに集まる。人気になるのはコタツである。ホットカーペットのうえで、だらしない姿になるのも日常だ。フローリングの価値は暴落している。このへんは見事に変わる。

冬にネコの身体をさわると、右側面だけぬくぬくしていることもある。左側面はふつうである。そして顔は寝起きである。どちら側をカーペットにつけて寝ていたのか、一瞬でバレてしまっている。まあ、バレても全然構わんのだが。

今日は、うちのメスネコ2匹がひとつのぬくもりのもとに集まっていた。ヒーターである。さらに同居女性もいた。我が家の女が勢ぞろいだった。ぬくもりを求める気持ちは、ヒトもネコも変わらないということか。

「談話室だよ!」

妙に嬉しそうに言っていた。ずいぶん古くさい言葉を使うもんだと思ったが、ヒーターの商品名が「談話室」というらしい。ヤケドをすることがないから、ネコ飼いたちの間で人気だそうだ。たしかに、ネコたちは平気で顔面や肉球を押しつけている。

「ガールズトークしてるんだよ!」

女性は続けた。しかし、ネコ2匹は完全に寝ボケていた。そして、ねむそうな顔のネコというのはたいてい老けこんでいるものだから、とてもガールズには見えなかった。どちらかといえば祖母であった。

グランドマザーズトークである。おもに戦前の話。

チューリップのサボテンの花

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一年ほど前に『岬めぐり』という曲のことを書いたんだが、それ以降、けっこうな数の人が曲名で検索してこのブログに来ている。昭和の曲だから、あまりネットに情報がなかったのかもしれない。私のブログにまともな情報はないがいいのか。そんな心配をしながらアクセス解析を見ている。

このあいだは、濁点を忘れている人がいた。「岬めくり」で検索してきていた。それで一人でウケていた。カルタのように気軽に岬をめくる。だいだらぼっちの発想ですね。

私がリアルタイムできいた音楽は90年代以降のものだが、中学生のころに家にあった昭和名曲集とかいう十五枚組のCDを聴いていたから、80年代以前の曲もわりと知っている。古い流行歌には特有の楽しさがあって、それは一人のアーティスト(たとえばaiko)を熱心に聴く体験とはすこしちがう。それぞれの歌手の個性にふれるというよりは、もうすこし大きな何かにふれるという感じだろうか。

早朝に居間でランダムに流すことが多い。心の準備なしにフッと耳にすることで、あらためて曲の良さを知る。流行歌は不意打ちでこそ生きるものなのである。今日は、不意打ちで聴いた『サボテンの花』(1975)がすごく良かった。「ほんの小さな出来事に愛は傷ついて」という歌い出しの曲。

あわせて口ずさんでいると、化粧中の同居女性にきかれた。

「これなんて曲?」

「チューリップのサボテンの花」と私は言った。

「は?」と女性は言った。

それで気づいたが、「チューリップのサボテンの花」というフレーズは無駄にややこしい。要するに、チューリップというグループのサボテンの花という曲なんだが、音声にしてみると支離滅裂で、馬鹿が寝言をほざいた印象になる。

「結局なにが咲いてんのよ?」

鏡に向かって、化粧したまま言われた。たぶん、咲いてるのはサボテン。

今後、この曲を説明するときは気をつけようと思った。そんな機会があるのかは知らんが。チューリップのサボテンの花。

「クフ王の仁徳天皇の墓」みたいな感じ。ピラミッドなのか古墳なのか。 

diary.uedakeita.net

 

近所に大戸屋ができてほしいという祈りにも似た気持ち

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私はほとんど自炊をしない。だから近所にある飯屋で日々の食事が决まる。これは同居人もそうである。行きつけの飯屋を五つほど用意して日々をまわしている。そんな食生活である。

しかし、近所にふつうの定食を食べられる店がない。中華、牛丼、カレーはある。パンや麺類もある。インドカレーにナンをひたして食べられる店まである。なのに、ごはんに味噌汁、主菜に小鉢という、日本的フォーマットで出てくる店がない。

自分の住んでいるあたりの問題なのか、意外とそういう場所は多いのか、とにかくそんな日々を過ごしているから、私と同居人のあいだに、「近所に大戸屋さえあれば……!」という、祈りにも似た気持ちが生まれている。

もっとも、最後に大戸屋に行ったのは二人とも十年前で、私はむかし東京に住んでいたころ、立川駅近くの大戸屋に通っていた。そして同居人は河原町で働いていたころ、会社の昼休みに大戸屋に行くことが多かった。

対象が日常から消失し、記憶の中にのみ存在するようになったとき、プラスにせよマイナスにせよ、その評価は極端になるもので、近所に大戸屋のない生活を十年続けた結果、われわれのなかで、大戸屋はどんどんその輝きを増している。

価格と味のバランスが絶妙だった(気がする)。とろろ御飯がものすごくおいしかった(気がする)。大戸屋に行ったときはいつも幸福な気持ちで店を後にしていた(気がする)。大戸屋の話題になるたびに、われわれは「あの店はよかった」、「あの店があれば日々が輝くのに」、「あの店のない日々などカスにすぎない」とエスカレートしていき、いまや大戸屋は、伝承の世界にのみ存在する幻の名店のようになっている。

だから生活圏でなんらかの店が潰れるたび、われわれは「大戸屋になれ」と念じている。ひとつの店が消えるということは、別の店が入るということで、当然そこには大戸屋が入る可能性もあるわけだが、しかし願いが叶ったことはなく、たいていは、どうでもいいような店が入るのである。

このあいだ、またひとつ店がつぶれた。

しばらくして工事がはじまった。二階建の古いビルを壊し、新たな何かを作っていた。われわれはひたすらに、「大戸屋になれ……!」と念じていた。鉄骨の組まれた工事現場の前を通るたびに大戸屋のことを思い、『思考は現実化する』というタイトルだけ聞いたことのある本を参考に、大戸屋もまた現実化するのだという強固な信念にもとづいて、「来いっ、大戸屋っ、来いっ……!」と念じ続けていた。

結果、学習塾ができた。

こうしてわれわれの思いはまたしても裏切られたのであり、三十すぎの男にとって学習塾ほど生活に無縁のものもなく、しかも二階建のビルだというのに一階も二階も学習塾であり、われわれはその前を通るたび、「生徒募集中!」という無神経な文字をうらめしげに見つめ、私は今回も大戸屋という選択肢を与えられなかったことに落胆の色濃く、同居人は大戸屋のことを想って悲しみの色深く、ヤケになったのか、ピカピカの学習塾を指さすと私にむかって吐き捨てたのだった。

「あんた通えば?」

誰が通うかよ。

思考は現実化する_アクション・マニュアルつき

思考は現実化する_アクション・マニュアルつき

 

 

キャッチーなメロディをすぐに口ずさんでしまう

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aikoの『恋をしたのは』がずっと頭のなかを流れている。

『聲の形』という映画の主題歌になっていた。これがずっと流れている。そして頭のなかを流れるメロディは口に出されることを求めるので、私は小部屋でずっと歌っている。もっとも、「あ~あ~あ~あ~恋をしたのは~」というところだけで、あとはホニャホニャ的ごまかしによって歌詞を覚えていないことを隠蔽している(隠蔽できとらんが)。

aikoの曲で初聴から覚えられるものは意外と少ない。最近の曲だと『合図』は一発で持ってかれたが、基本的にじわじわと良さが分かってくる曲が多い。去年出たアルバムに収録されている『蒼い日』なんか、最初のうちはなんとも思っていなかったのに、現在はイントロだけで感極まる状態になっている。

とくに注目していなかった曲に「これめちゃくちゃ良いじゃん!」と気づく。aikoを聴いているとひんぱんに起きることである。そして「俺はいままで何をきいてたんだ」となる。aikoふうに言うならば「あたし今まで何をしてたのか」。まあ、aikoの曲の良さに気づくことをaikoふうに表現するというのは、ヘビが自分のシッポを食ってるみたいで訳が分かりませんが。

頭のなかを流れる曲は定期的に変わる。いつもaikoとはかぎらない。

一時期、浜田省吾の『もうひとつの土曜日』の歌い出しの「ゆうべ眠れずに泣いていたんだろう」という部分だけが異常に流れていることがあり、そのころは居間を横切るたびに私が浜省になるから同居人が激怒していた。中途半端に声マネしているのも問題だった。これはまさに「中途半端」と言うしかないもので、「やや声を低めにして、もったりと歌う」というくらいのことである。

「クオリティ」と同居人は言った。

「上げる努力して」

しかし私は努力しなかった。するわけがない。

日々、小部屋からニセ浜省が出てきては、「ゆうべ眠れずに泣いていたんだろう」と歌い、台所で麦茶を飲んで、ふたたび「ゆうべ眠れずに泣いていたんだろう」と歌いながら帰っていく。同居人目線で見れば、これはまあ、「うんざり」としか言いようがない。

「ゆうべ熟睡してたし」

たまに言われていた。

一度、テイラー・スウィフトの曲が頭の中を流れていることがあった。とくに好きなわけではない(というかそもそもよく知らない)んだが、メロディは関係なしに感染する。曲名は分からないが、「シェキ、シェキ!」と連呼する曲で、それを歌いながら居間に出ていったときは、同居人に爆笑されていた。浜省のときとはちがい、ウケにウケていた。「意外性がすごい」と大絶賛だった。

「テイラー・スウィフト、上田からいちばん遠いところにいるからね!」

べつにウケを狙ったわけじゃなく、メロディが感染しただけ。たなぼた的大ウケ。

しかしまあ、たしかにテイラー・スウィフトと自分のあいだには、人間であること以外に何の共通点もないとは思う。二人で飲みに行けば二秒で話題が尽きる自信がある。私もあなたも人間ですよね、というところから探っていくしかない。あなた、酸素を吸って、二酸化炭素を吐いてると聞きました。じつは、僕もそうなんですよ! そんな話で、テイラーと盛り上がることができれば。 

Taylor Swift

Taylor Swift

 

 

カラスという黒いチンピラについて

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いつもの通り道に細い路地がある。たまに塀の上にカラスがとまっていて、そんなときは通りすぎるのに緊張する。私はカラスとタイマンして勝てる自信がない。とくに路地のような狭いところでは。

だからできるだけカラスと目を合わせないように、存在感を消して通り過ぎる。カラス様のご機嫌を損ねないように、しずしずと歩くのである。図体は私のほうがでかいというのに。

このあいだは、両方の塀に一羽ずつカラスがとまっており、さすがに迂回した。何なんだと思った。RPGか。中ボス戦か。

カラスに対する恐怖感のルーツを辿っていくと、子供のころに親戚の家で読んだマンガが思い出される。いかにも昭和的な古い絵柄のもので、作者は誰だか分からない。その表紙で女学生がカラスに目玉をついばまれていた。まだグロいものに耐性のついていない時期だったので、数日ほど尾を引いた。あれでカラスには勝てないと刷り込まれた気がする。目玉ついばまれるんだもん。

日常で見かける鳥として、ハト、スズメ、カラスと並べてみた時に、やはり一羽だけ、カタギじゃない鳥が混じっている。ハトなんてのは歩くたびに頭を前後に動かす馬鹿だし、スズメというのは地べたでチュンチュン言うだけの雑魚である。対峙したところで何の緊張感もない。

しかしカラスは無言でジッとしているし、くちばしを開けばアーッと恐ろしい声を出す。何故あんなものが日常にいるのか。警察は何をしているのか。反社会勢力を野放しにしたままでいいのか。暴対法は機能していないのか。

私はスズメとタイマンすることになっても、試合の一時間前まで平気で寝ていられる。あんなもんに戦略は不要、蹴飛ばしゃ終わりである。しかしカラスとタイマンするとなれば、前日の夜からガタガタ震える。実家の母親にも電話をいれる。

明日、カラスとタイマンすることになったから……。ふるえる声で言うはずだ。感情のたかぶり如何では、生んでくれてありがとう的なことまで言いかねない。カラスきっかけで親子愛に覚醒。あの黒いチンピラにだけは勝てない。


ハイテンションCM無限ループという現代の地獄

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[餃子の王国]工場直売生餃子 48個 九州の自社工場で作っています。全国へ直送!
出典:Amazon

このあいだ、スーパーの惣菜コーナーにいたときのこと。小型のスピーカーが設置されており、音声だけのコマーシャルが流れていた。餃子のCMだった。家族で食卓を囲んでいるという設定らしい。子供役の声優が絶叫していた。

餃子、おいし~~~~~い!!!

このCMは十五秒で一周するようで、私が惣菜を選んでいるあいだじゅう、何度も餃子おいしいという絶叫をきかされた。これには参った。

餃子がおいしいことは、天津飯がおいしいことや唐揚げがおいしいことに並ぶ事実だとは思うが、だからといって、店頭のスピーカーで十五秒に一回のサイクルで餃子おいしいと絶叫していいわけではない。

世の中には、「大人の声優が子供を演じるときのわざとらしい声」というものがある。私は昔からそれが少し苦手だというのもある。ふだんは「少し苦手」で済むんだが、延々とループされると明確に苦手になる。

コマーシャルは繰り返し何度も見られる。しかし、あまり繰り返しを意識して作られていないのか。これは一度かぎりのハイテンションを何度も再生するところからくる問題だろう。基本的にハイテンションは二度目から鬱陶しいものである。一度かぎりのものである。

よって、私の考える地獄は血の池でもなければ針の山でもない。ハイテンションCM無限ループである。このスーパーの惣菜コーナーに一時間もいれば私は発狂する自信がある。

たまに、ブックオフに行って本を長時間あさることがある。あのときも頭がおかしくなりそうになる。これは異常なハイテンションというほどじゃないが、妙に明るい口調の店内アナウンスがずっと言っている。

「読まなくなった本が捨てられてしまうのは、もったいないと思いませんか?」

まず、こういう最後でこちらに委ねてくる口調が私は苦手である。明らかに「もったいない」という結論は決め打ちなんだが、「思いませんか?」と形だけ委ねられる。最後だけはこちら側に言わせようとする。それを何度も何度も何度もきかされる。脳にじくじく入ってくる。

もっとも、結論を相手に委ねずに、「読まなくなった本が捨てられるのはもったいない!!!」と断言されても、それはそれで困るかもしれない。「餃子おいし~い!!!」と同じ地獄が生まれそうだ。

読まなくなった本が捨てられるのはもったいな〜〜〜い!!! ブックオフに売れ!!! ブックオフに売れ!!! ブックオフに売れ!!! もったいな〜〜〜い!!! 売れ!!! もったいな〜〜〜い!!! 売れ!!! 読まなくなった本が捨てられるのはもったいな〜〜〜い!!! 売れ!!! もったいな〜〜〜い!!!

売れッッッ!!!

これだと、地獄のどあいは増すか。まだ疑問形だからマシなのか。本当は、もっと静かにしてほしい。とにかくループは精神がやられる。

2016年寄稿記事まとめ

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とくにテーマの縛りはなく自由に書いていいとのこと。強い意志でアヒル口を維持する女を見かけて考えたこととか、ゴシップは固有名詞をすべて「人間」に変換してしまえば無意味になるとか、役に立つのか立たないのか、深いのか浅いのか。

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子供のころに覚えた言葉は全然使わない

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かつて、言葉は意味よりも先にカッコよさで入ってきた。

小学生のころ、「ターボ」という言葉がカッコよかったんだが、これは『ストリートファイター2ターボ』のせい。通称スト2ターボ。ある日クラスメイトが「スト2ターボ」と言い出し、誰もがその響きに魅了され、次の日には男子があちこちでターボと言い始めていた。舌から舌へ、言葉はすさまじい速度で感染する。気持ちのいい言葉の爆発的感染力。

同時期、「ターボファイル」というものもあった。これはスト2ターボよりマイナーだが、当時の私はRPGツクールというゲームにはまっていて、そこで使う付属品だった。ここにもターボがいると子供ながらに思っていた。さらに数年後、オリコンチャートでブイブイいわせていた頃のTMレボリューションが、「ジ・エンド・オブ・ジェネシス・TMRエボリューション・ターボ・タイプD」に改名した。ここにもターボ!

小学校から中学校にかけてのすりこみだった。短期間にターボの三連打を浴びた。この言葉は今後の人生において中心的役割を果たすのだろうと思った。カッコいい言葉の代名詞として、自分は高校生になっても、大学生になっても、就職しても、ターボと言うのだろう、ターボで仕事を終わらせ、ターボで国道を走り、ターボで子供たちの待つ家に帰るのだろうと。

しかし数年後、あっさり気づいたのは、ターボという言葉は全然使わないということだった。ターボに関する私の記憶は中学あたりを最後にブツンと途切れている。現在の日常にターボは存在しない。ターボなしで平気で暮らしている。こういうことは本当によくある。子供の頃にゲームやマンガで学んだ単語は、日常ではほとんど使わないのである。

考えてみれば当然で、ゲームの世界には勇者や戦士や盗賊や魔法使いがおり、魔王やトロルやゴーレムやドワーフがいるが、いま挙げたものを日常で見たことはありますか。合コンで相手の職業が戦士や魔法使いだったことありますか。カフェでとなりの席にドワーフが座ったことありますか。河川敷でゴーレムがうたた寝してるの見たことありますか。

子供のころに覚えた言葉の大半は、ターボのように自然とほったらかされる。出番がないからである。かわりに使われるのは「モチベーション」とか「コンプライアンス」とか「納期」とかである。ターボと別れて納期と出会うことが、大人になることなのである。

私は、カフェで近くの人々がゲームの話をしているのを聞くのが好きだ。このあいだは男の集団が「賢者の石」と連呼していて楽しかった。ドラゴンの倒しかたを話しているのもよい。一瞬、自分が2017年の日本にいるのか分からなくなる。異世界に迷い込んだ感じ。

知らない言葉を当然のように使われるとゾクゾクする

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自分の知らない言葉を当然のように使われるとゾクゾクする。ほとんど性的興奮の域に達している。自分が聞いたこともない言葉を当然のように使われて、「もちろん知ってますよね?」という態度を取られること。これがたまらない。

だから私は電車の中で女性誌の吊り広告を見るのが好きである。自分と無関係な言葉、無関係な表現、無関係な欲望があふれているからだ。たとえば数年前に見かけて、いまだに覚えている女性誌のコピー。

今年こそ、パンツスタイルを極めたい!

これだけでゾクゾクする。私はパンツスタイルを極めたいと思ったことがない。人生で一度もない。しかしこのフレーズには「何年も挫折してきた」というニュアンスさえ読み取れる。「今年こそ」である。世の中にはパンツスタイルを極めようと何年も努力している人間がいる。ゾクゾクする。

昔、ふとした拍子に、知らない女のラジオをきく機会があった。メインは女なんだが、聞き役の男もいる。二人でやっているようだった。偶然きいただけだから関係性も何も知らない。しかし女は「みなさんご存知のアタシです」というトーンで喋り続けていた。それが極まったのがこの発言だった。

あたしチャレンジザトリプルのチャンスを逃してるけど、いま雪だるま大作戦やってるじゃないですか?

あとから話の流れで理解したのは、これがサーティーワン・アイスのキャンペーン用語だということだった。しかしその瞬間、私は「チャレンジザトリプル」も「雪だるま大作戦」も知らず、この一文を頭に叩きこまれた。ひとりでゾクゾクしていた。何も分からない。この女の発言の意味が本当に分からない。

私はこの女がチャレンジザトリプルのチャンスを逃していることを知らない。いま雪だるま大作戦をやっていることも知らない。そもそもチャレンジザトリプルや雪だるま大作戦が何なのかすら知らない。何ひとつ知らない!

話法も素晴らしかった。「あたし~じゃないですか?」という構文を採用していること。これが「みなさんご存知のアタシです」という印象を強調する。そこに謎の言葉が二つも詰め込まれる。絶頂に達する。たぶんこういう女がパンツスタイルを極めたがっている。私の知らないところで、私の知らない欲望にもとづいて。

aikoの歌詞の怖さについて

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秋 そばにいるよ (通常盤)

aikoは常に「あたしとあなた」のことを歌う。

そしてaikoを聴くとき、私は男でありながら「あたし」になっている。この話は何度か書いた。私のなかに住む背の低い女をaikoが引きずりだしてきたという話である。aikoの音楽の前では、私は平気で性別を飛び越えて、「俺はaikoだ」と断言してしまえる。「俺とはaikoの別名だったのだ」と言ってしまえる。

それはまあ、いいだろう(社会的にはよくないが)。

さて、私は男として生きている。つまりaikoの曲を「あなた」の立場で聴くことも可能だということだ。しかし、「あなた」の立場でaikoの曲を聴くことは怖い。

怖さのひとつは、いわゆる「女の計算の怖さ」なんだが、これは今回の主題ではない。それでもいちおう具体例をあげておくと、

 愛しい人よ
 くるくると表情を変えながら
 あたしの手のひらの上にいてね
『恋人同士』

 あなたが悲しくなった時
 見計らって逢いに行ければ
 きっと心を見透かされた様で
 あたしが気になるでしょう?
『愛の世界』

女のしたたかさ。

これは怖いっちゃあ怖いが、気軽に共有可能な怖さだという印象がある。「いや~、女って生き物は怖いね~」と簡単に言える怖さだということだ。

しかしaikoが本当に怖くなり、そして凄くなるのは、「あなたはあたしのすべてなの」(『何処へでも行く』)のほうなのだ。女の打算と女の愛、どちらが怖いかといえば、私は女の愛のほうが怖い。女の愛はその極点において、男に神であることを求めるからだ。

aikoにとって、あなたは「すべて」である。だからこそ以下のような歌詞も生まれる。

 あなたの首筋に噛みついて
 絶対離れはしないよ
『愛の世界』

これは、河原の石にへばりつくヒルの発想ではないのか。『愛の世界』と名づけられた曲に、なぜこんな一節が紛れこんでしまうのか。aikoが怖ろしいのは突然こんなことを言いはじめるところだ。愛をきれいごとで済ませないところだ。強い愛は相手を破壊するほどの力を秘めていると暴露するところだ。「あなた」の立場で聴くと、それが怖い。

『心に乙女』の歌詞について

四枚目のアルバム『秋 そばにいるよ』には、『心に乙女』という曲が収録されている。そこに一切の打算はなく、淡々と愛が歌われる。

 宇宙の隅に生きるあたしの大きな愛は
 今日まで最大限に注がれて
 それは消える事なく
 あたしの大きな愛が
 あなたを締め付けてゆく

「締め付けてゆく」という言葉のチョイスはやはりおかしくて、これはニシキヘビの動きか何かを記述するときの表現ではないのか。「あたしの大きな愛」を主語とした時、なぜそれが「あなたを締め付けてゆく」に続いてしまうのか。この文脈で「締め付ける」という言葉を使えば、社会的に良い意味にはなるはずがない。

「宇宙の隅に生きるあたしの大きな愛」の時点では、宇宙から見ればちっぽけな自分のなかに何よりも大きな愛があるという話だ。そこまでならば美しい話だ。「それほどあなたのことが好き」と言われれば、喜ぶ男もいるかもしれない。しかしこの文の着地点は、「あなたを締め付けてゆく」だ。それでも素直に喜べるか? 「おまえの愛に締め付けられて最高!」と言えるのか?

歌詞は次のように続く。

もっともっと注いで

「あなたを締め付けてゆく」からの「もっともっと注いで」であり、男の視点でこの歌を聴いたときに自分の中に生まれる感情が「怖い」である。それは自分というものが限界まで絞りとられていく感覚、跡形もなくなるまで絞りとられていく感覚である。

宇宙の隅に生きるあたしの大きな愛は
今日まで最大限に注がれて

しかも、それは「今日まで最大限に注がれた」のだ。にもかかわらず、aikoは「もっともっと注いで」と言っているのだ。それだけの要求を突き付けられても、男は元気よく「注いでやろう!」と言えるのか?

『心に乙女』にはこんな歌詞もある。

 今夜もお願いする
「今日も愛してくれる?」

「今夜も」であり「今日も」である。この「も」が怖いのであり、この「も」こそがaikoなのだ。aikoの「も」に終わりはない。翌日もaikoは「今日も愛してくれる?」と言うだろう。その翌日も翌々日も「今日も愛してくれる?」と言うだろう。

aikoの「も」が時とともに磨り減らされることはない。こんな曲がアルバムの最後にぽつんと置かれて、最低限のアレンジで淡々と歌われる。しかもタイトルは『心に乙女』だ。心に乙女があれば何をしてもいいのか!

aikoのしたたかさの背後にあるもの

冒頭に挙げたように、aikoにはしたたかさがある。しかしaikoのしたたかさは、常に「深い愛」に裏付けられている。それが怖いということだ。したたかさの背後に「男の金・地位・見た目」があるならば平凡な話だ。それは取り替え可能だ。年収・肩書・外見はどれも相対的なものだ。それは「男と女」の話だ。

しかしaikoは「あたしとあなた」の話しかしない。aikoは恋愛のことを歌うが、それは常に「男と女」ではなく「あたしとあなた」の話なのである。その証拠に、aikoは200以上ある楽曲のなかで、一度も「男」という言葉を使っていない(私は調べた)。

aikoに「男」はおらず、「あなた」しかいない。「男」は取り替え可能だ。「あなた」は取り替え不能だ。「あなた」はパラメータやスペックに還元できない。だからこそ「首筋に噛みついて絶対に離れない」のであり、「あたしの大きな愛があなたを締め付けてゆく」のだ。他の誰かでもいいとは思えないからこそ、aikoの愛は暴力になるのだ。

私はaikoのように誰かを愛することは良しとする。その時、私は自分の内側にある面倒くさくて重たい部分をaikoに託している。そのとき出てくるのが「俺はaikoだ」という言葉である。しかしその暴力性を自覚するからこそ、aikoのような愛を自分に向けられることを想像すると、ひるむ。それは重いし、きついし、怖い。だから私は「あたし」としてaikoを聴くことはできても、「あなた」として聴くことはできない。

結び

aikoが自分の気持ちの重さを自覚し、そのことに葛藤するとき、力と力のぶつかりあいが曲を盛り上げていく。そのとき生まれるのは壮大なバラードである。それはたとえば、以前書いた『秘密』という曲である。

そしてaikoがただ淡々と気持ちを重くしてゆくとき、簡素なアレンジの小曲が生まれる。それは深夜四時に静かな部屋で歌われるような音楽である。そこに見かけの派手さはなく、ただ「あなた」に向けて重くなる感情だけがある。それが『心に乙女』という曲であり、aikoのもっとも凄く、同時に怖い部分なのである。

 

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ヘラクレスオオカブトはずるい

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小学生のころは虫とりに夢中だった。虫とりあみと虫かごを持って近所を探険する。すると自然と虫にランクが生じはじめる。珍しい虫ほど価値は高い。そこらへんにゴロゴロ転がっている虫は捕まえても嬉しくない。

たとえばアブラゼミはランクの低い虫の筆頭だった。とにかく夏になりゃミンミン言っているし、一本の樹に十匹以上しがみついている。二週間もすれば全員死んで地面に転がっている。こんな虫は捕まえるまでもない。

しかし稀少なセミもいた。たとえばクマゼミである。これは非常にレアだった。一夏をとおして数匹見れればいいところ。だからクマゼミを見つけた日はテンションは上がる。絶対に捕まえたいと思っていた。

ある時、夏の終わり、うちの郵便ポストでクマゼミが死んでいたことがあった。私は神さまの贈り物だと思っていた。しかし京都で暮らしていると、クマゼミをけっこう見かける。生息分布の違いなのか、そのへんの地面でゴロゴロ死んでいる。長い月日を経て、クマゼミの価値は暴落した。貨幣のだぶつきに似た状態。クマゼミの流通量過剰。

トンボも捕まえていた。これはオニヤンマが王様だった。ちなみに最低ランクはシオカラトンボで、これは腐るほど飛んでいた。腐りながら飛んでいたんじゃないかと思えるほどだ。イトトンボというのもいて、これはその名のとおり、糸のように細い身体を持っていた。レア度が高いから好きだった。

しかし子供は昆虫にたくましさを求める。よって、イトトンボにはいまいち乗れない。となれば、オニヤンマである。レア&たくましい。オニヤンマは休日に父親の車で連れていってもらえる遠くの公園でしか見ることができず、まれに近所を飛んでいるのを見た時など、うちの近所で芸能人を見かけたような興奮を感じていた。

オニヤンマよりもレアな存在として、ギンヤンマというものもいた。これは数年に一度しか見ることができない。オニヤンマの銀色バージョンで、あの頃の私はすぐにファミコンの知識を応用しようとするから、「2Pカラー」という発想をしていた。オニヤンマの2Pカラーがギンヤンマなのである。

カナブンもよく捕まえていたが、これはエメラルドグリーンのカナブンが最上級だろう。茶色のカナブンなんかは雑魚である。似た形では、カミキリムシというのもいた。ゴマダラカミキリという種類で、これはアパート前の地面に落ちていたが、ボトボト落ちているわけではないから、それなりに評価の高い虫だった。

アゲハチョウの幼虫も見た。色使いは美しかったが、こいつは頭のあたりから黄色の触手を出すという非常にきもちのわるい動きをする。しかもその触手が臭い。これが外見のあざやかさをだいなしにしていた。

そしてカブトムシ、これはもちろんキングである。そのなかでも最強はヘラクレスオオカブトだった。昆虫図鑑の存在感が大きかった。図鑑を見ながら妄想をふくらませる。とくに海外の昆虫は凄い。私は幼少期からヘラクレスオオカブトに強い執着があるんだが、これは完全に図鑑のせいだった。日本の日常生活には一切登場しない。だから知らない人はまったく知らないのかもしれん。南米に生息する世界最大のカブトムシである。

むしや本舗 ヘラクレスオオカブト成虫 オス(ヘラクレスヘラクレス) 140~143mm [生体]

カブトムシなのに、身体にイエローが入っている。この色づかいは革命だった。ほとんど禁じ手と言ってよい。カブトムシなのに黄色を使う。でしゃばりだと批判されても仕方ない。しかし最強なのだ。最強だからこそ許される。スタンドプレーにならない。

かぶき者であり、同時に最強である。いくらなんでもあんまりだろう。こういうやつはふつう、二番手じゃないのか。主人公の茶色いカブトムシがいて、ピンチのときにだけ、謎の昆虫としてヘラクレスオオカブトが助けに来る。それならば分かる。しかし主人公がヘラクレスオオカブトなのだ。

とにかく子供の頃から、私のヘラクレスオオカブトに対する感想は「ずるいよ……」の一言に尽きる。ヘラクレスオオカブトはずるい。

居候生活の終わり

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半年ほど前に一人暮らしをはじめた。長く続いた居候生活がとうとう終わった。現在、アパートの一室で生活している。もっとも、あいかわらず場所は京都である。前の家もそれほど遠くない。区だけ変わった。

転がりこんだ当初、同居人には「二ヶ月くらいいる」と宣言していたが、なんだかんだで七年半いた。「上田は算数ができないのか」と同居人はあきれていた。

たしかに、二ヶ月と七年半はぜんぜんちがう。「二ヶ月くらい」という言葉にふくまれた曖昧性を、どれだけ好意的に取ってみても、七年半という数字は出てこないだろう。小学校で九九を学び、中高と数学を学び、大学の工学部まで出ておいて、二ヶ月と七年半のちがいも分からない大人になる。これが人生のふかしぎなのか。

引越しがきっかけというわけでもないが、しばらく文章を発表できていなかった。

このあいだ、グーグルに「上田啓太」と入れたら、「上田啓太 死んだ」とサジェストされた。反射的に「上田啓太死んだの!?」とおどろいたが、考えてみると、上田啓太というのは自分のことだ。一瞬、今ここにある肉体が何なのか、よく分からなくなった。

グーグル経由で自分が死んだことを知る。どことなく、ホラー小説っぽさがある。実はもう私は幽霊なのかもしれない。こういうの、意外と自分じゃ気づけないものですし。

とりあえず、ブログをようやく更新できた。書き手が幽霊だろうが、読んでるぶんには困らないでしょう。

しかし、ひさしぶりに自分のブログを見て気づいたが、最後に書いた記事のタイトルが、よりにもよって、「ヘラクレスオオカブトはずるい」だ。なんだか、昆虫に嫉妬して死んだ男みたいになっている。さすがの私だって、もうすこしマシな死に方をしたい。かっこ悪すぎる。「上田啓太 昆虫 嫉妬 死亡 なぜ」とかサジェストされてしまう。

今日は大晦日だ。もうすぐ夜の九時になる。

冒頭で一人暮らしをはじめたと書いておいてまぎらわしいが、今は、前の家にいる。同居人が帰省したため、ネコの世話を頼まれたのである。えさをやり、糞の始末をしてやった。もうすぐ年があける。ネコたちと一緒に2018年をむかえることになる。そして元旦の朝に、一人暮らしのアパートに戻る。同居人はたぶん、実家の奈良でおもちを食べていることだろう。

というか、もう家を出たから「同居人」という呼び名もおかしいんだが、このへんも考えねばならないんだろう。今後もブログに出てくるだろうし、いいかげん、適当な名前を付けなければならない。

なんとなく、いま、「杉松」というのを思いついたので、これにする。来年以降、元同居人のことは杉松と呼ぶ。あの女は杉松である。今後、日記に杉松という名前が出てきたら、「上田を長いこと住まわせていた女のことだな」と理解してください。

まあ、いまさら杉松とか名づけられても、長く読んでいる人は違和感で頭が破裂しそうになるだけかもしれませんが、なんとか、がまんしてください。私なんかすでに死んでるんだから、違和感で頭が破裂するくらいなんですか。なにごともガッツです。

それでは、もうあと数時間ですが、よいお年を。来年もよろしくお願いします。


布使い杉松

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私は布のことを何も知らない。

実家を出てからというもの、一度もカーテンを使ったことがない。これまで、京都、大阪、東京など、あちこちのマンションおよびアパートおよび一軒家に住んできたが、窓は常にむきだしのままだった。プライバシーという発想のない空間である。

布のないことは当然だったから、それに違和感もなかった。たまに人が来て、「わ! カーテンがない!」と、おどろいていくだけだ。

しかし、杉松宅での七年半の居候生活によって、人間の文化的な生活が布とともにあることを知った。窓があれば布をかける。これがカーテンである。床があれば布を敷く。これがカーペットである。なるほど、と思った。

とくに、杉松という女は布を使うのがうまかった。新しい布がいつのまにか部屋の一角で存在感を発揮していることがよくあった。そのことを指摘すると杉松は言った。

「まあ、あたしは布使いだからね」

この名称は、ゲームにありそうでなかった。刀使いでも槍使いでもなく、布使い。よわそう。敵の攻撃を布でふせぐ。魔物の爪も布でふせぐ。結果、血まみれ。もちろん攻撃も布である。攻撃音は「ファサァ……」。

一人暮らしが始まり、ふたたび布のない空間で暮らすことになった。部屋には巨大な窓があるが、その向こうに誰かがいるわけでもないので、そのままにしてある。フローリングにも何も敷いていない。

しかし、私はすでに布の役割を知っている。布を使うことで空間に彩りが生まれることだって知っている。これまでの私の一人暮らしが、常に殺伐としたムードとともにあったのは、布を使わないゆえだったんだろう。

さっそく布を買ってくるべきだと思い、杉松に「布はどこで買えるのか」とメールした。「布屋だよ」とだけ返ってきた。完全に手抜きの解答であった。パンはパン屋で買える、と言うようなものだ。「その布屋はどこにあるのか」と再度メールした。「そのへんにあるよ」とだけ返ってきた。とっても投げやり。テレビのリモコン探してるんじゃないんだから。

ハトの配色は奇をてらいすぎ

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去年の夏、河川敷に座って、鴨川の流れをながめていた。川というのは見飽きない。作為がないからである。周囲にはハトがたくさんいた。まじまじとハトを見た。ハトもまた見飽きない。やはり作為がないからである。

と、言いたいところだが、ハトを見て思ったのは、首まわりの配色が奇をてらいすぎだということだった。全身は地味な灰色なのに、首のあたりだけ、蛍光のパープルとグリーンがざっくりと塗りたくられている。これはかなり大胆な色使いだろう。企画会議なら非常に揉めそうなもの。けっこう長いこと見ていたが、いっこうに納得がいかなかった。

ハトというのは日常的な鳥だし、そこらの公園に行けば一山いくらでポッポポッポやっているから、ついつい普通のものだと思ってしまうが、あらためて観察すると、こんな妙な鳥はない。そもそも、この歩き方はなんなのか。一歩進むごとに頭を前後に動かしている。

どんなお調子者も五分で恥ずかしくなりそうな、徹底的にひょうきんな動きである。すこしでも自意識があればやれたものじゃない。それを種族全体でやっているんだから見上げたものだ。遺伝子レベルで滑稽な鳥。親から子、子から孫へと滑稽を受け継いでいる。そりゃ平和の象徴と言われるわけだ。平和というのは、滑稽の長期的持続のことなのだから。

兵士の行進においてハトの首の動きを義務づければ、戦争など馬鹿馬鹿しくてやってられたものではない。我が国の兵士がハトのような首の動きで前進すれば、敵国の兵士もハトのような首の動きで前進する。どちらの兵士も耳まで真っ赤である。こんな状態じゃ、目もまともに合わせられない。「もう戦争やめましょう」となる。

ハトの眼というのもまた奇妙なものだ。外的な力で無理やりに見開かれたような眼をしている。まぶたに針金のフックをかけて、強制的に眼を開かせるとハトの眼になるんじゃないか。『時計じかけのオレンジ』の後半で、主人公があんな眼をさせられていた。

こう考えると、ハトは眼も動きも首まわりの色づかいも、すべてがおかしい。幻覚のような見た目をしている。あれは日常の鳥なんかじゃなく、ドラッグによる変性意識状態ではじめて目にするべき鳥じゃないのか。「あ、やばい鳥見えた」と言って頭をぶんぶん振るほうが、正解な気がする。

今後、ハトが見える人間は全員ラリッていると思って生きることにした。人類皆狂気。

プリクラで美化される顔面について

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いつのまにか、写真は美化されて当然になっている。あれはなんなんだろう。プリクラにしろ、スマホのカメラアプリにしろ、人間の顔面をみごとに美化してくれる。そして人々は、美化された画像を堂々と公開している。そこに後ろめたさもなさそうだ。

私は写真を撮られることが好きではない。長く同居していた杉松もそうだった。そんな二人で暮らしていると、写真を撮る機会は一切おとずれない。われわれを置き去りにして時代は美化のテクノロジーを発展させていった。

ネットで人間の美化された顔面を見るたびに、われわれは話し合っていた。これは何なのか。いったい何が起きているのか。日常的にこういうことをしている人間のアイデンティティはどうなっているのか。画像と実物のギャップで、自己同一性が崩壊したりしないのか!

だがある時、二人で二条のシネコンに行った。映画を観たあと、エスカレーターを降りるとゲームセンターがあった。プリクラコーナーと書いてある。われわれは目を合わせ、二人で乗り込んだ。いまこそ美化の実際を知るときだと考えたのである。

まず、いざボックスに入るとはしゃぐ。キャッキャする。硬貨を半分ずつ投入する。撮影がはじまる。次々とシャッターを切られる。しばらく待つとプリクラが落ちてきた。そこに映った自分たちの顔を見た。きっちりと美化されていた。向こうが「なるほど」と言った。私も「なるほど」と言った。

「なるほどなあ」
「なるほどだね」
「完全になるほどだよ」
「本当になるほどだ」

われわれは「まんざらでもない」の見本みたいな態度になっていた。撮影前はアイデンティティが、自己同一性がと言っていたのに、撮影後は二人とも「なるほど」しか言ってない。実際に美化された自分の顔面を見てしまうと、小理屈など吹き飛ぶのだ。

美化とは具体的になにか。肌に強く光が当たっている。細かいしわはすべて存在しないことになっている。唇は赤子のような桃色になっている。目も大きく加工されている。感覚としては十年ほど若返っている。大学生の自分がいると思った。

これは要するに、機械にお世辞を言われているようなものなんだろうが、唐突にオバチャン口調を使わせてもらうと、アラお世辞でも嬉しいわ、と思った。アタシこんなに目おっきくないわよぉ、とも。

われわれは帰ることにした。市バスに揺られながら、プリクラを見てはカバンに戻し、しばらくしてまた取り出すことを繰り返した。プリクラのおかわりが止まらない。片付けてもすぐに見てしまう。やがて最寄りのバス停に到着した。われわれはまんざらでもない顔のまま下車した。まんざらでもない顔の大人、運賃230円。

aikoを聴きすぎると人はどうなるのか?

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まとめ?(通常盤)

去年はaikoを聴き続けた一年だった。今年も聴き続けることになるのだろう。

日常的にaikoを聴いていると、世界の見え方は変わりはじめる。aikoの歌詞世界をもとにして世の中の事象を眺めるようになる。

さっきも地下鉄のホームでカップルが見つめあっているのを見て、「いやいやaikoじゃないんだから」と思った。自分のほうがおかしいのは分かっている。aikoじゃないんだからも何も、実際にあれはaikoじゃない。aikoだと認識するためのハードルが下がりすぎている。

先日、aiboに関するネットニュースを見て、反射的にaikoと読み間違えた。同じように間違えた人はけっこういるようだった。なので私のような人間はそりゃ間違える。むしろ間違えないほうがおかしい。間違えたことを誇りにすら思う。aiboとaikoを簡単に見分けられるような男にはなりたくない。そのときはヘッドホンを置いてaikoを聴くことから引退する。

ただ数日後、またニュースの見出しをざーっと見ていたとき、今度はauの二文字をaikoと見間違えて、これは自分でもどうかと思った。「a」さえありゃいいのか。さすがに誇りにも思えない。たんにボケてきてんじゃないのか。認知が心配になる。将来、なんでもaikoに見えるじじいとして死ぬ可能性が出てきた。看護婦さんに「あんたaikoかえ?」とか言ってしまう。

街を歩いている時、音楽プレイヤーも何もないのに、頭のなかをaikoの曲がずっと流れている。昨日は信号待ちをしている最中、『自転車』という曲がずーっと流れており、一人で感極まっていた。なんだか、ひとつの境地に達した感はある。剣を極めて剣を捨てることに似てきた。もはやイヤホンは不要、aikoは常に心に流れているということか。

あと、このあいだ夢にaikoが出てきて、二人でひたすら恋愛について議論していたんだが、これが一番やばいでしょ。体感として二時間ほどあった。居酒屋のようなところでひたすらaikoと恋愛論を戦わせていた。かなり白熱していた。大変だった。

だいたい、aikoと議論したとか言ってるが、夢に出てくるaikoというのはaikoの姿をとった私ですからね。自分の無意識がaikoとしてあらわれている。見かけは自分とaikoだが実際はたんなる自分と自分なわけで、「そうは言いますけどねaikoさん!」とかハイボール片手に興奮ぎみで言っていたが、そのaikoさんはおまえだ。

aikoを聴き続けることは自分の心の中にaikoを作り出すことで、そうして生まれたaikoをメディア等に登場する実際のaikoに投影することでもあるのだが、もちろん実際のaikoは頭の中のaikoとはズレている。そして面白いのは、このモチーフ自体がまさにaiko的だということだろう。こうしてaikoを聴くという行為自体がaiko的世界に吸収され、円環は閉じられる。

しかしまあ、とりあえず夢のなかでの議論は完全な一人相撲だったと思う。あれはひどかった。あそこまでの一人相撲は珍しかった。恥ずかしくなるほどの一人相撲。あ、「ひとりずもう」って書くとaikoの曲にありそう。

ネコネコ通信

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この日記には更新がとまるとネコが増えるという法則があるんだが、案の定、この半年のあいだに杉松宅のネコは7匹まで増えていた。すでに私は家を出た身だが、たまにネコたちを見に行っているので状況は把握しているわけだ。

もともとの4匹にくわえて、知り合いから3匹の子ネコを預かっていた。それで7匹になっていた。預かることと飼うことはちがう、と杉松は言った。だからネコは増えていない、という理屈のようだった。しかし足元をみれば7匹が走り回っている。なんだか高度な記号操作によってズルをしてる感じだ。

これが預かっていた3匹のネコたち。

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いちおう名前を付けていた。黒い子ネコはネネとトト、白黒のネコは菊千代である。ちなみに右下の白ネコはセツシで、これは前からいる。セツシはそれまで最年少だったんだが、突然3匹も年下が増えたからだろう、笑ってしまうほどに先輩風を吹かせていた。この写真でも得意げである。子分を紹介しているつもりなのかもしれない。

はじめのうち、子ネコは小部屋に隔離して飼育していたんだが、セツシは毎日足しげく通い、いっしょに遊んでやっていた。いちおう書いておくと、大きなネコが小さなネコと遊んでやる姿というのは、破壊的にかわいいものである。

その後、子ネコたちも家のあちこちで活動するようになった。セツシは自慢げに連れて歩いていた。それでまた笑ってしまった。ここまで先輩風を吹かせる生きものをはじめて見た。セツシの吹かせた先輩風にほほをなでられた気がした。

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その後、ネネとトトは2匹セットでもらい手が決まった。なのでもう杉松の家にはいない。いまは市内某所の豪邸に住んでいるらしい。杉松がネコを渡すために家を見に行ったのである。飼育環境を確認して飼い主を査定するという趣旨だったんだが、査定もくそもない、お釣りがくるほどの大豪邸だったという。

「上田の住んでた小部屋、あの家のトイレくらいしかなかったよ!」と杉松は言った。

「ていうかもう、この家自体、あの家のオマケみたいなもんだよ! たいへんだよ、ああいう家に住んでる人がいるんだよ!」

妙にうれしそうに、身振り手振りをまじえて語っていた。たしかに、豪邸を身体で体験することは問答無用でテンションを上げる。巨大なものはそれだけで人を興奮させるということか。

現在、ネネとトトは金持ちマダムのもとで元気に暮らしているようだ。たぶん美味しいものも食べていることだろう。杉松は「あたしも一緒にもらわれたかった!」と言っていたが、これは少々無理のある考え。一人だけ二足歩行だし、人類だし。

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そして3匹目の菊千代だが、これは今も家にいる。杉松はまだ飼い主を探しているようだが、はたして見つかるんだろうか。それに、他のネコたちとも完全に仲良くなっている。

私は家を出た身分だから、もう飼っちゃえばいいじゃんと気楽なことを言うが、正式な飼いネコは4匹で止めておきたいらしい。ネコたちの老後を考えると、4匹が限界とのこと。しかし「ネコたちの老後」というのも、なかなかすごい言葉ですね。

ということで、杉松の家には現在、5匹のネコがいる。初音、影千代、セツシ、ミケシ、菊千代である。ネネとトトはしばらく滞在して去り、唯一のヒト科だった上田もとうとういなくなった。整理してみると、みょうに生き物の出入りする家ですね。ほぼほぼネコですが。

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