Quantcast
Channel: 真顔日記
Viewing all 355 articles
Browse latest View live

なぜ十代の頃はあんなに徹夜していたのか?

$
0
0

なんだかんだで徹夜をしなくなった。年をとると徹夜がキツくなるなんて話を、むかしは他人事のように聞いていた。十代後半から二十代にかけて。しかし三十歳をすぎた今、たしかに徹夜はつらい。意味もなく夜更かしなどしたくない。夜は眠るための時間だ。

そもそも最近は、徹夜などする意味もない。徹夜する場合、単純にスケジューリングの失敗を意味する。当時はなぜ、あんなに意味もなく徹夜していたのか。たとえば大学のテストがあるから徹夜、友達とカラオケに行けば徹夜、酒を飲むときもだれかの家で徹夜、眠くなったやつから脱落して雑魚寝。

マンガ喫茶のナイトパックで朝までマンガを読み続けるという行為もひんぱんにしていた。あれはなんだったんだろう。なぜあんなことが可能だったのかわからない。最後はいつもボロボロになっていた。

そう、ボロボロにはなっていたのだ。十代だろうが、徹夜でマンガを読めばボロボロになる。ピンピンしているわけではない。夜どおし、マンガ喫茶の狭いブースでマンガを読み、朝の七時頃に店を出ると、朝日の強さで目が潰れそうになる。身体はこちこちになっている。その記憶はある。

カラオケで徹夜というのも、いまいち意味がわからない。昼から歌えばよくないか? 昼はそれぞれ学校やバイトが忙しかったのか? それとも単純にうれしかったのか? 自分の判断で朝まで起きていられることが? ああ?

過去の自分にメンチを切っていても仕方ないが、本当に、徹夜に対するモチベーションは分からなくなっている。絶対に徹夜などしたくない。何度でも言いたい。夜は眠るための時間だ。

高校生のとき、ドラゴンクエスト5をブッ通しの徹夜でクリアした。ぼんやりとエンディングを眺めていたら、旅立ちの村の神父に、「あなたが旅立ったのが、まるで昨日のことのように思えます」と言われた。

旅立ったの、マジで昨日なんだけど。

コントローラー片手に、しょぼしょぼした目で思っていた。「昨日のことのように」とかじゃなく、ガチの昨日。私は昨日旅立ち、今日魔王を倒した。このスピード感、もっとほめてほしい。クリーニング屋に出したシャツが戻ってくるほどの時間で世界を救う男がいるか。

まあ、神父に言っても仕方ないことではあったが。あの人、完全にドット絵だったし。


マンガ喫茶バイトの思い出

$
0
0

マンガ喫茶でバイトしていたことがある。あの仕事はよかった。すばらしく暇だった。何をすることでもなく一人でカウンターに立っていることが多かった。「労働」と「ぼんやり」の境界線が溶けてゆくのを感じていた。

想像がつくと思うが、マンガ喫茶では、客は受付をすますと、みんな勝手にマンガを読みはじめる。もはや店員は必要ない。食事を頼むときくらいだ。それに食事といっても、私の働いていた店は冷凍ピラフや冷凍チャーハン、それに冷凍のタコ焼きを出すだけだった。どれもレンジでチンするだけである。

店のマニュアルには、「レンジのチンの音は絶対に鳴らさないようにしろ」と書いてあった。客に聞こえるとイメージがよくないからだろう。これはいま思い出すと笑う。そりゃ客だって、バックヤードで三つ星シェフがチャーハン炒めてくれてるとは思ってないだろうが、それでも向こうから「チン!」という音がきこえて、そのあと店員がチャーハンを持ってくれば色々と考えてしまうだろう。

だから、あたため完了の残り数秒、正確にはレンジの数字が「1」になった時点で、すばやく扉をあけるきまりだった。たまに他の作業が忙しく、音が鳴ってしまうと、ミス扱い。すこしだけ場がピリッとしていた。

あの頃は、とにかく掃除ばかりさせられていた。店長はバイトをボーッとさせたくないんだが、やらせるにも仕事がない。だから「掃除」という半永久的にできる作業が生まれる。店に店長がいるときは、バイト全員、潔癖症のようにひたすら掃除をしていた。床を拭き、空いている個室を掃除し、マンガを包んでいるビニールを拭き、トイレを掃除し、バックヤードも掃除し……。

もっとも、これは店による。店長がゆるいところだと、バイトは平気でサボッている。一時期、客として通っていたマンガ喫茶があったんだが、あの店はひどかった。受付のバイトが若い男女二人なんだが、その二人が、まったくバイトらしさを漂わせていなかった。つまり、接客業特有のうそくささ、作り込まれた元気のよさがなく、むきだしの男と女として、カウンターに立っていたのである。まるでジョンレノンとオノヨーコのように。

もちろん、声もまったく張らない。男のほうが店のシステムを説明するが、女はただ隣に立っているだけで、笑顔もなにもない。気だるそうにしている。二人の背後には薄暗い事務室が見える。こいつらあの部屋でヤッてんじゃないか、という雰囲気があった。

すこし前に調べたら、その店は潰れていた。そりゃそうだろ、と思った。あんなにみだらな接客をされると落ち着かない。接客がみだらということありますか!

「アイプチで白目をむく」という現象について

$
0
0

高校時代のクラスメイトに、やたらと白目をむく女がいた。

背の低い女子で、目が小さく、それをコンプレックスにしており、毎朝がんばって二重にするべくアイプチをするんだが、その影響で、喋っていると唐突に白目をむいてしまう。本人も自覚していた。

あの現象は何だったんだろう。アイプチで白目になるというのは、当時有名な話だった。私はいまいち仕組みを分かっていないが、アイプチの糊のせいで、まばたきのときに完全にまぶたが閉じなくなる? 中途半端に開いたままになる? それで、すこしだけ白目が見えてしまう?

疑問形だらけですまない。

とにかく言えるのは、アイプチで白目をむくのは致命的だということである。カワイイを獲得したくてアイプチしているのに、白目というのはカワイイの正反対だろう。

目は一重だが喋りながら白目をむかない女と、ぱっちり二重だが喋りながら白目をむく女では、どちらが魅力的なのか。そんな問いも生まれる。白目をむくリスクと、二重になるリターンは、どちらが大きいのか。

なんだか、能力者バトルみたいでもある。冨樫義博あたりに描いてほしい。主人公の女子が師匠に出会い、特殊能力「アイプチ」を獲得するのだ。これを使うと二重になれるが、まばたきのとき白目をむいてしまうリスクもある。ぱっちり二重にするほど、白目の確率もあがる。これは戦略性がある。少女マンガ的な主人公が、少年マンガ的な物語をやると、こうなるんじゃないか。

日常生活では、いかに白目をむかずに二重になるかが試される。たとえば自撮りの瞬間だけ能力を発動させ、すぐに戻す。それなら白目に気づかれることもない。デートの時は、ここぞという場面でだけ二重になればいい。見つめあう瞬間だけ能力発動だ。しかし、あまり長々と二重になってはいけない。彼の前で白目をむくのは致命的だからだ。

しかしある時、なにも知らない彼は提案してくる。一泊二日の温泉デート。もう絶対にごまかせない。それでも好きな人への想いは止められない。初日の夜、限界をこえたアイプチの発動。デート開始より物陰で見ていた師匠がさけぶ。

「もうやめろ、それ以上アイプチすると、死ぬまで白目ですごすことになるぞ!」

「それでもいい……今この瞬間に二重でいられるなら……今、シュン君にかわいいと言ってもらえるなら、これで最後でいい、これが最後の二重になってもいいッ!」

「やめろーーーーーーッ!」

ということで、シュン君とのデート中にずっとぱっちり二重だった主人公は、その後は自分の部屋で正座しながら、ずっと白目をむいている。口からはよだれダラダラ。限界をこえてアイプチしたんだから当然ですね。

野生の勘よりグーグルマップ

$
0
0

最近はまったく道に迷わなくなった。日常的にネットを使う環境にあるからだろう。スマホを出せばその場で道を調べられるから迷いようがない。これは地味にすばらしいことかもしれない。というのも、私はいわゆる方向音痴というやつで、以前はひんぱんに道に迷っていたからである。

十代の頃、はじめて遊びに行った友人の家から帰るとき、「10分ほど歩けば駅につくよ」と教えられて歩きだし、ひたすら歩き続けて1時間、深い森にいたことがあった。あれが人生で一番ひどい迷いかただった。何をどう間違えれば、駅のかわりに森につくのか(しかも深い)。

そのときはなんとか森を抜け、電車じゃなくタクシーでうちに帰った(最終の電車がなくなるほど夜が更けていた)。あとから聞いたところ、私は一度目の岐路で間違え、そのままひたすら間違った方向に歩き続けたようだった。その結果の深い森である。

道に迷うというのは、岐路で間違えるということだ。一本道で迷うことはない。そして岐路で間違えた時、正論を言わせてもらうならば、途中で気づいて間違えたところまで戻ればよい。少なくとも、自分が深い森にいると気づくまでに、このままじゃ絶対に駅には着かないと分かるはずなんだから、その時点でくるりと方向転換し、来た道を戻ればよかった。

だが、方向音痴の人間を支えるのは「妙な自信」である。あのころ、私は岐路のすべてを直感で処理していた。自分では、それを「野生の勘」と呼んでいた。右に行くか左に行くかは野生の勘で即座に決め、自信まんまんで進みはじめる。そしてひんぱんに迷っていた。

すこし考えれば分かるが、小学生のころからファミコンのコントローラーを握っていた男に野生の勘などあるはずがない。人生で一度も野生だったことがないくせに野生の勘がそなわっていると思っているんだから、のんきなものだ。そのまま深い森で十年ほど過ごしていれば、野生の勘も備わったんじゃないのか。

むかしの自分に皮肉を言っていても仕方ないが、これが方向音痴の人間のしくみである。そして、そんな私ですら最近は道に迷わない。すこしでも迷いそうになるとスマホでグーグルマップを見るからである。現在地も表示してくれている。これならば迷うことがない。野生の勘よりグーグルマップ。ファミコンで成長した男にお似合いの結論ですね。

ヤセ型の男を見ると人は予言者になるのか?

$
0
0

私はヤセ型の男である。十代で体型が定まって以降、ほとんど体重に変化がない。骨格も華奢である。肩幅のせまさと、手首のほそさがポイント。あちこちで「細いねえ」と言われながら生きてきた。

そんな私の経験で言うと、人は、ヤセ型の男を見ると予言者になる。私は十代のころからずっと言われてきた。

「25すぎたら太るよ」

これは、本当にひんぱんに言われた。年上が多かったが、同い年の人間にも言われた。なぜか年下に言われることまであった。とにかく「25すぎたら太るよ」と連呼されてきた。体型の話題になると、シメはこの予言だった。私はもう頭のなかで、勝手に「~であろう」と補完していた。

汝、齢25をさかいに太りはじめるであろう……。

誰もが予言者になっていた。一体なんなんだと思った。これは、人間という生き物を図鑑に登録するならば、絶対に特徴として書いておきたいことである。ヒト、雑食、二足歩行、指を器用に使いさまざまな道具を使用し地上に高度な文明を確立する一方で、ヤセ型のオスを見ると予言者になる奇妙な性質をもつ。

さて、私の場合、予言は外れた。25歳をすぎても太らなかった。「全然太らねえじゃん」と拍子抜けしたのを覚えている。すこしくらい太ってほしかったのに、あいかわらず鏡に映るのはガリガリの肉体である。だがその頃、予言者たち(知人たち)は口をそろえて言っていた。

「30すぎたら太るよ」

すこしだけ数字が変わっていた。あれには本当におどろいた。予言の微調整が行われている。そんな都合のよい仕組みがあっていいのか。ノストラダムスの予言は外れたが、すぐにマヤの予言が出てきたようなものか。1999年に人類は滅亡しなかったが、じつは2012年に滅亡するのだという、あのパターンを思い出した。

現在、私は34歳なんだが、まだ太っていない。30すぎても太らなかった。結局マヤの予言も外れたようなものか。ぜんぜん人類は滅亡しないし、ぜんぜん私は太らない。次の予言はいつだ。40歳か? 世界が滅ぶのと私が太るの、どっちが先だ?

私が太った直後に世界が滅んだりしたら、笑ってしまうと思う。人生の大半をガリとして生きて、デブとして死ぬ。どれだけトリッキーな人生なのか。

地球にせまりくる巨大な隕石。もはや避けることはできない。科学者の計算によれば衝突は数日後。死ぬ前に、会いたい人に会いに行こう。だれもが旧友と連絡をとりあうなか、再会の場にあらわれた見知らぬデブ。困惑する一同のもとに隕石が迫る。死の直前、全員の頭によぎる思いはひとつ。

「このデブ誰……?」

これは、色々とだいなし。滅亡直前に太りませんように。

初恋の記憶がパピプペポ

$
0
0

成人式に出席したとき、「未来の自分に宛てた手紙」を読む機会があった。完全に忘れていたんだが、小学生のころ、「二十歳になった自分に手紙を書こう」という企画があったらしい。担任の教師がしっかりと保管していたらしく、その場で生徒のひとりひとりに渡していった。

みんな興奮していた。それは喜びによる興奮というよりも、うぎゃあやめろ的興奮である。大人になってから小学生の自分が書いた手紙を読まされるなど罰ゲームに等しい。私も絶対に読みたくないと考えた。

覚悟をきめて担任に渡された封筒を見た。そこには「はたちマンのぼくへ」と書かれていた。それだけで心が折れそうになった。まさか宛名の時点でスベってるとは思わないから。十年の時をへて、宛名でスベる。なんて怖ろしい子。

仕方なく内容も読んだ。そこに書かれていたのは、面白さ以前に、十年後の自分に読まれることを想定できていない文章だった。要するに内輪ネタであり、十年後の自分すら内輪から外れていたのである。

たとえば、「いまでもPさんのことが好きですか?」という一文があった。当時の自分が好きだった女子を想定して書いているようだが、まったく心当たりがない。それにPというのは、イニシャルトークでありえないアルファベットだろう。これじゃあ、パピ田パピ子みたいな名前になってしまう。

それでうっすら思い出したのは、当時、「たとえ未来の自分が相手でも、好きな女子の名前を書くのは恥ずかしい」という葛藤があったことだった。だからイニシャルで表記しようとした。しかし、「いや、アルファベットで書くのも恥ずかしい」という自意識もあり、結果、イニシャルも変えてPにした。アホか、と思う。未来の自分にまで好きな女子を隠すな。そのせいで、十年後のおまえはパピ子みたいな女を想像している。おまえのくだらない自意識のせいで、初恋の記憶がパピプペポだ。

パピ子は、腰のあたりでパキッと二つに折れる。血のかわりにチョコアイスが流れている。冷凍庫に住む女である。100円で買える安い女でもある。夏場は太陽に照らされてドロドロになる。おまえの彼女、駅前の広場で溶けてたよ。友人に言われてあわてて走る。パピ子との別れの原因は、今年の夏が暑すぎたせい。それがおまえの初恋の女なのか。よく冷えた初恋だこと。

サンタのしっぽをつかめ

$
0
0

誰の人生にも、サンタクロースが嘘だと気づいた瞬間があるはずだ。しかし私は思い出せない。いつのまにか、「サンタなんていないでしょ」という冷めた態度になっていた。「サンタいるでしょ!」から「サンタいないでしょ」への転換、この瞬間が絶対にあったはずなのに、記憶がない。

子供の頃から、サンタのしっぽをつかんでやろうと頑張っていた記憶はある。現行犯で取り押さえてやろうと思っていた。だからクリスマスの夜はがんばって眠らないようにしていたんだが、結局は未熟なお子さんであるから、一時間もがんばると熟睡してしまう。そして翌朝は枕元にプレゼントが置かれており、「今年もサンタのしっぽをつかむことができなかった……」と思いながら、ほしかったベジータの人形でめちゃめちゃ遊んでいた。それが私の幼年時代である。

いまさら分析しても何の意味もないんだが、当時の自分は何が間違っていたんだろう。どうすれば、サンタのしっぽをつかむことができたのか。おそらく、親は早起きしてプレゼントを置いていたんだろう。しかし当時の私は、親は夜更かしをして、プレゼントを置いていると考えていた。ここに錯誤があった。基本の発想が間違っていた。

もしも本当にサンタのしっぽをつかみたいならば、がんばって夜に起きているのではなく、はやめに布団に入って朝の五時ごろに目をさまし、たぬき寝入りしておくべきだったんじゃないか。そして親がこっそりと部屋に入ってきた瞬間、目をあけて、笑いながら言うべきだった。

「寝てると思ったかい?」

そして、親からプレゼントを引ったくる。

「これはもらっておくよ。せっかくだからね。もっとも、次からは普通に受け取ってもいい。サンタクロースという方便は不要だ。あなたたちは親として、そのままプレゼントをくれればいい。僕は子として、それを受け取る。当分は扶養される身だからね。それじゃあさよなら。僕は、このベジータの人形でめちゃめちゃ遊ぶことにするよ」

しかしまあ、こんな腹のたつ対応をされたら、来年以降はプレゼントをあげたくない気がする。おまえを喜ばせるためにやってんだよ。

ハンガーにかけられたコートは、なぜあんなに偉そうなのか?

$
0
0

はじめて意識したのは十八歳の時だった。一人暮らしをはじめた冬である。自分のコートをハンガーにかけて思った。なぜ、コートという衣類はこんなにも偉そうなのか? 衣類がここまで偉そうな態度を取ることがあるか?

正面から見たときの話である。ものすごく偉そうに感じる。両腕の張りかたが尋常じゃない。直立不動である。非常に堂々としている。二文字であらわすならば「凱旋」である。あきらかに何かを成し遂げている。

それは、ハンガーにかけられたことの誇りなのか? すなわち、他の衣服はたいてい畳まれているが、自分は畳まれることなく、ハンガーという特権的地位にある。その誇りが、コートの態度を偉そうにするのか?

この視点をいちど獲得してしまうと、服屋に行くことも大変である。あちこちに偉そうな衣類が飾られている。ハンガーにかけられたジャケットというのも、なかなかに偉そうだ。ものすごく胸を張っている。形状記憶ということなんだろうが、そもそも、形状を記憶してやろうという魂胆が偉そうでしょう。よっぽど形状に自信があるんでしょうね。

その点、ネルシャツなんかは、クタッとしていて、かわいらしい。Tシャツとなれば、もはや偉そうでもなんでもなく、ただのペラペラの布である。とっても気さく。

十九歳の冬、一人暮らしの部屋に女の子が来た。われわれはまだ微妙な関係だった。お互いに意識はしている。しかし、完全に打ち解けているわけでもない。会話は瞬間的に盛り上がり、ふと途切れて沈黙が支配する。

そんな状況で、壁にかけられた彼女のコートだけが堂々としていた。ぎこちなく笑う彼女の向こうに、堂々と胸をはる彼女のコートが見える。私は緊張しつつ、たまにその偉そうなコートを見ていた。なんであんなに偉そうなんだろう。ハンガーにかけられた野獣の証。「あまたのオスを喰い尽くし、いまだ欲望は満たされぬ」みたいな雰囲気。しかし彼女は照れていた。どっちが本当の君なの。


読んだことのない雑誌を読んでみる

$
0
0

前置き:今年の没原稿を供養しておきたい。内容とは関係のない事情でお蔵入りになった。雑誌読み放題サービスを使って色々な雑誌を読んでみるという企画。

 *

未知の雑誌を読むことには、独特の楽しさがある。ふだんの自分の関心から遠ければ遠いほどに楽しい。一冊の雑誌をとおして、自分の知らない世界をのぞきこむことができるからだ。そしてこうした体験は、たとえば美容院での待ち時間や、ふらりと立ち寄った定食屋ですることができた。

しかし現代では、雑誌読み放題サービスというものがある。これは要するに、ああいった楽しみを自宅で再現できるということじゃないのか。家にいながら、知らない世界をのぞきこみ放題だ。ということで、本日は読んだことのない雑誌を色々と読んでみたい。まずは『CanCam』から。

CanCam 2018年6月号

特集:眉と前髪

『CanCam』は「20代女性の"今"をきりとるファッションバラエティマガジン」である。特集タイトルはシンプルに「眉と前髪」。いさぎよい。

特集内で男性ヘアメイクさんのコメントが紹介されているのだが、これがわりと強烈なものだ。眉と前髪の処理で美人かブスかまで変わる、だから絶対に頑張るべきだと断言されている。そして、だめ押しのように放たれるひとことがこれ。

眉と前髪から逃げちゃダメ!

自分は『CanCam』のターゲット層でもなんでもないわけだが(30代の男だし)、ここまで断言されると、「俺も眉と前髪から逃げるのはやめよう……」と思ってしまう。考えてみれば、眉とも前髪とも、まともに向き合ったことのない30年だった。

まあ、反省してみたところで、実際に『CanCam』へ視線を戻すと自分の参考には全然ならないわけだが、どうも断言されると私は弱い。

眉を太く描くのはすごく怖いことだけど

これは、妙に切実なひびきがあるところが面白かった。「人を心から信じるのはすごく怖いことだけど」みたいな雰囲気。それでも勇気をだして眉を太めに描いてみよう、という主旨のようだ。世の中には色々な勇気がある。

美スト 2018年6月号

特集:「すっぴんがキレイそう」こそ、ほめられメークの最終結論!

『美スト』は、「40代、あの頃より今日、今日より5年後の私が絶対キレイ! 多くの壁を乗り越え、美を磨く女性を応援する美容誌」である。「多くの壁を乗り越え」というあたりに、すばらしい迫力がある。この迫力は『CanCam』には出せないだろう。

特集の要点は「どうすれば、すっぴんがキレイそうだと思われるか?」である。これはものすごく複雑な欲望だと思う。もはや「キレイだと思われたい」という単純な欲望ではなく、「メークした顔からスッピンを想像されたうえで、その顔をキレイだと思われたい」のである。人間の欲望の複雑化を感じる。

メークに関しては、以下のような小特集もあった。

『電車でメーク』論争を美しく解決!

電車で化粧することについて、否定派と肯定派それぞれの意見を集めている。否定派の「部屋も汚いんだと思う」という言いがかりに笑ってしまった。電車で化粧しただけでそこまで言われてしまうのか。

ちなみに、この雑誌にも「前髪さえうまくいけば、すべてうまくいく!」という見出しがあった。世の女性には前髪信仰とでもいうべきものがあるんだろうか。前髪さえうまくいけば世界平和がおとずれる、とでも言い出しそうな勢いである。

こうなってくると、トランプ大統領の前髪が気になってきますね。あの前髪さえうまくいけば、国際情勢のもろもろも解決するんじゃないのか。今後、われわれはあの前髪を注視していくべきではないのか。

ムー 2018年5月号

特集:転生と臨死体験の謎を解く「中間世」の秘密

『ムー』は、「UFOから超能力、UMA、超常現象、神秘、都市伝説まで、世界の謎と不思議に挑戦するスーパーミステリーマガジン」である。

まさか『ムー』があるとは思わなかった。オカルトといえば『ムー』、『ムー』といえばオカルトである。雑誌リストの中でも一つだけ異様な雰囲気を放っていて面白い。さっきまで眉や前髪について考えていたのに、今度は生まれ変わりや臨死体験。話の方向が変わりすぎである。これが読み放題の醍醐味なのか。

もっとも、『ムー』という響きだけをみれば、女性誌に見えないこともないんじゃないか。たとえば、ノンノ、ムー、アンアンというふうに並べてみるとどうか。違和感なく女性誌に見えないか。まあ、べつに見える必要はないわけだが。

アマゾンで恐竜壁画を発見!!

タクシーの窓に映る死者の顔!!

とにかく見出しのテンションが高くて面白い。こんなことを叫びながら教室に駆け込んでくる友だちがいたらいいなと思う。ちなみに恐竜壁画にかんする記事の導入は、

やはり人類と恐竜は共存していたのか!? その事実を裏付ける"岩絵"の存在が明らかになった!!

画面ごしに鼻息がかかりそうなテンション。書き手の興奮が伝わってくる。

『CanCam』と『美スト』のあとで『ムー』を読むと、人間の多様性みたいなものに思いをはせてしまう。この世界には、前髪と眉から逃げないと決意する人間もいれば、電車内でのメークについて議論する人間もおり、恐竜と人類が共存していた可能性に興奮する人間もいるのだ。人類って、本当に色々なやつがいる。

『ムー』をさらに読んでいくと、現実感覚が徐々にゆがみはじめる。

転生の仕組みと現実世界は、「ワンネス」が創造した遊園地!?

秘められた宇宙エネルギーが、あなたを幸運へと導く!! テクタイト・クリスタルの魔法

人生のシナリオを書き換えられる! 神道発祥の地『壱岐島』

こうした記事をずっと読んでいると、こってりしたものを無限に食べ続けている気分になってくる。こちら前菜のカツ丼でございます、続いて本日のメインのカツ丼に、副菜のカツ丼でございます。ところでお客様、食後のデザートにカツ丼はいかがでしょうか? みたいな感じ。『ムー』は胃にくる。

ゲーテ 2018年6月号

特集:戦う身体! 人生を劇的に変えるメンテナンス

『ゲーテ』は、「仕事に遊びに一切妥協できない男たちが人生を謳歌するためのライフスタイル誌」である。

なんというか、一気に現世へと戻ってきた感がある。『ゲーテ』を読む人は『ムー』を読まないだろうし、『ムー』を読む人は『ゲーテ』を読まないだろう。

もしも両方を毎号熱心に読んでいる人がいるならば、ぜひとも会ってみたい。一体、どんな人間なのか。胸まで開いたシャツを着て、日焼けした肌に白い歯をのぞかせながら、「ご存知ですか! 人類と恐竜は共存していたんですよ!」とか言ってくるのか。ちょっと好きになっちゃいそうだが。

さて、私は雑誌の見出しがなにかを命令してくる瞬間が好きである。読者を煽る瞬間が好きだと言い換えてもいい。「あなたは今すぐこれをするべきだ」と主張するとき、その雑誌は輝くのである。その意味で、『ゲーテ』の以下の見出しはすごくよかった。

腰を救え!

いったい、なにを命令してくるのか。こんなに生活感あふれる命令があるか。小学生男子は勇者になって世界を救いたがるものだが、男も中年になると自分の腰を救いたがるということか。たしかにまあ、腰が痛いと世界だって救えないが。まずは腰、それから世界。それが中年のリアルということか。

もうひとつ、面白かった命令形がこれ。

美しさは金で買え!

みもふたもなさが良い。札束でブン殴るかんじ。これもまた中年のリアル。

つり情報(2018年5月15日号)

特集:レンタルタックルで始める青物ジギング入門

その名のとおり、釣り人のための情報誌である。

私は釣りをしたことがない。まったくの門外漢である。しかし、自分の知らない分野の文章には独特の面白さがある。完全に置いてきぼりにされる快感とでも言えばいいのだろうか。書き手の興奮は伝わってくるが、その興奮を自分はまったく共有できない。そのギャップにぞくぞくするのである。

その意味で、『つり情報』に出てくる以下の文章は最高だった。

外房の青物ジギングがいよいよ初夏のトップシーズンに突入! メインターゲット・ヒラマサのほかワラサやイナダ、カンパチといった青物が数、型ともに期待できるこの時期はジギング入門にピッタリの季節でもありやす。とはいえ専用のタックルを持っていないからと、これまで二の足を踏んでいた人も多いのでは?

短い文を読むだけで、大量の疑問がわいてくる。「ジギング」って何だろう。「青物」はなんとなく分かる。「ヒラマサ」「ワラサ」「イナダ」は魚の名前か。しかし聞いたことのあるようなないような微妙なレベル。「カンパチ」は響きが面白いから知っている。「ありやす」というのは釣り人特有の口調なんだろうか。それとも、この雑誌特有の口調なんだろうか。そして「専用のタックル」とは?

門外漢にとって、専門誌の文章は暗号に近く、そして私のような人間は、その暗号めいた雰囲気にぞくぞくしてしまう。謎の専門用語が乱舞する快感。わけのわからなさに巻き込まれることの恍惚。今回のように文章全体の温度が高いと、余計にたまらない。「よく分からんが、とにかく楽しそうでなによりだ!」という気分になってくる。

分からないままに、他のページもぱらぱら読んでみる。すぐに気づいたのは、「釣った魚を持っている人の写真」が大量に載っていることだ。みんな嬉しそう。とても良い顔をしている。これが釣り人にとっての至高の瞬間なのか。ちょっと惹かれる。釣りをしてみるのもいいのかもしれない。

まとめ

以上、今回は五つの雑誌を読んでみた。美容院の待ち時間のような気分になるかと思ったが、実際は、もっと混沌とした体験だった。雑誌の振り幅が大きいからだろう。日本中どこの美容院に行っても、美容師が待ち時間に『CanCam』と『ムー』を渡してくることは絶対にない。

この後しばらくは、頭のなかが大変なことになっていた。雑誌で読んだ断片的な知識やイメージが頭のなかを舞いはじめる。さまざまな欲望、さまざまな断言、さまざまな命令。とりあえず私も眉と前髪から逃げるのはやめて、腰を救いながら、釣りでもしようかと思う。そして、来世はカンパチにでも生まれ変わりたい。

おっさんは一つの様式

$
0
0

気づけば三十歳を過ぎている。同世代の男は少しずつ自分をおっさんと称しはじめた。しかし自分にはどうもおっさんとしての自覚が生まれない。ほとんど人に会わない生活をしていることも大きいんだろう。ひとりでいると年齢感覚がアップデートされないため、なんとなく自意識は二十代で止まったままだ。

ただ先日、ふらっと立ち寄った天下一品でラーメンとギョーザを食べながら店内に置かれていたプレイボーイの水着グラビアを眺めていたとき、「いや俺おっさんじゃん」と衝撃を受けた。自分の状況を俯瞰して、「こいつ完全におっさんみたいなことしてんな」と。何の言い訳もきかない姿だった。

しみじみ思ったが、「おっさん」という存在は非常に文化的な様式だと言える。いかにもおっさんめいた言動が人々のイメージとして共有されており、自覚的にせよ無自覚にせよ、そのイメージをなぞったときに人はおっさんとなるのである。そして、天下一品でラーメンとギョーザを食べながら週刊誌のグラビアを眺めるというのは、まさに文化的に登録されたおっさんらしさの典型だったんだろう。

これをフィギュアスケートのような競技としてみるならば、天下一品でラーメンを食べることで点数が加算される。さらにギョーザを頼んだことで加点、店に置かれたプレイボーイを手に取ったことで加点、若い女の水着グラビアを見たことで加点、といったところか。審査員がピッピッピと点数を入力していく光景が目に浮かぶ。

ただ、注文時に「ラーメンはこってり? あっさり?」ときかれて、私は「あっさり」と即答したんだが、あれ、減点されてたと思う。おっさんなら、こってりでしょう。審査員も舌打ちしたでしょうね。萎えるような凡ミスだし。

以下、予想される審査員コメント。

「入店と同時にプレイボーイを手に取ったことで期待させられる出だしとなった今回の演技だが、注文時の二択であっさりを選んだことですぐさま馬脚をあらわした。ああいったことをされると他の行為も結局は若造のまぐれ当たりにすぎなかったのかと失望させられる。注文におけるギョーザは加点対象としたがこれくらいは誰でもできる。水着グラビアを眺める際の表情のしまりのなさで多少は挽回したが不信感を払拭するほどには至らず。まったくもって皮脂が足りていない。今後はもっともっと、加齢臭のにおいたつような演技を期待したい」

これは、さんざんな評価ですね。精進しよう。トイレのドアを開けたまま放尿しよう。

aikoを聴きすぎると人はどうなるのか?

$
0
0

まとめ?(通常盤)

去年はaikoを聴き続けた一年だった。今年も聴き続ける一年になるのだろう。

日常的にaikoを聴いていると、世界の見え方が変わりはじめる。aikoの歌詞世界をもとに世の事象を眺めるようになる。ついさっきも、地下鉄のホームでカップルが見つめあっているのを見て、「いやいやaikoじゃないんだから」と思っていた。しかしこれは自分のほうがおかしい。aikoじゃないんだからも何も、実際にあれはaikoじゃない。aikoだと認識するハードルが下がりすぎている。

先日、aiboに関するネットニュースを見て、反射的にaikoと読み間違えた。同じように間違えた人はけっこういるようだった。なので私のような人間は、そりゃ間違える。むしろ間違えないほうがおかしい。間違えたことを誇りにすら思う。aiboとaikoを簡単に見分けられるような男にはなりたくない。そのときはヘッドホンを置いて、aikoを聴くことから引退する。

ただ数日後、またニュースの見出しをざーっと見ていたとき、今度はauの二文字をaikoと見間違えて、これは自分でもどうかと思った。「a」さえありゃいいのか。さすがに誇りにも思えない。たんにボケてきてんじゃないか。自分の認知が心配になる。将来、なんでもaikoに見えるじじいとして死ぬ可能性が出てきた。看護師さんに「あんたaikoかえ?」とか言ってしまう。

街を歩いている時は、音楽プレイヤーも何もないのに、頭のなかをaikoの曲がずっと流れている。昨日は信号待ちをしている最中、『自転車』という曲がずっと流れており、一人で感極まっていた。なんとなく、ひとつの境地に達した感がある。剣を極めて剣を捨てることに似てきた。もはやイヤホンは不要、aikoは常に心に流れているということか。

あと、このあいだ夢にaikoが出てきて、二人でひたすら恋愛について議論していたんだが、これが一番やばいでしょ。体感として二時間ほどあった。居酒屋のような場所でaikoと恋愛論を戦わせていた。かなり白熱していた。大変だった。

だいたい、aikoと議論したとか言ってるが、夢に出てくるaikoというのは、aikoの姿をとった私ですからね。自分の無意識がaikoとしてあらわれている。いちおう見かけは自分とaikoだが、実際はたんなる自分と自分なわけで、「そうは言いますけどねaikoさん!」とかハイボール片手に興奮ぎみで言っていたが、そのaikoさんはおまえだ。

aikoを聴き続けることは、自分の心の中にaikoを作り出すことで、そうして生まれたaikoをメディア等に登場する実際のaikoに投影することでもあるんだが、もちろん実際のaikoは、頭の中のaikoとはズレている。面白いのは、このモチーフ自体がまさにaiko的だということだろう。こうしてaikoを聴くという行為がaiko的世界に吸収され、円環は閉じられる。

しかしまあ、とりあえず夢のなかでの議論は完全な一人相撲だったと思う。あれはひどかった。あそこまでの一人相撲は珍しかった。恥ずかしくなるほどの一人相撲。あ、「ひとりずもう」って書くとaikoの曲にありそう。

ネコネコ通信

$
0
0

この日記には更新がとまるとネコが増えるという法則があるんだが、案の定、この半年のあいだに杉松宅のネコは7匹まで増えていた。すでに私は家を出た身だが、たまにネコたちを見に行っているので状況は把握しているわけだ。

もともとの4匹にくわえて、知り合いから3匹の子ネコを預かっていた。それで7匹になっていた。預かることと飼うことはちがう、と杉松は言った。だからネコは増えていない、という理屈のようだった。しかし足元をみれば7匹が走り回っている。なんだか高度な記号操作によってズルをしてる感じだ。

これが預かっていた3匹のネコたち。

f:id:premier_amour:20180108193547j:plain

いちおう名前を付けていた。黒い子ネコはネネとトト、白黒のネコは菊千代である。ちなみに右下の白ネコはセツシで、これは前からいる。セツシはそれまで最年少だったんだが、突然3匹も年下が増えたからだろう、笑ってしまうほどに先輩風を吹かせていた。この写真でも得意げである。子分を紹介しているつもりなのかもしれない。

はじめのうち、子ネコは小部屋に隔離して飼育していたんだが、セツシは毎日足しげく通い、いっしょに遊んでやっていた。いちおう書いておくと、大きなネコが小さなネコと遊んでやる姿というのは、破壊的にかわいいものである。

その後、子ネコたちも家のあちこちで活動するようになった。セツシは自慢げに連れて歩いていた。それでまた笑ってしまった。ここまで先輩風を吹かせる生きものをはじめて見た。セツシの吹かせた先輩風にほほをなでられた気がした。

f:id:premier_amour:20180108013150j:plain

その後、ネネとトトは2匹セットでもらい手が決まった。なのでもう杉松の家にはいない。いまは市内某所の豪邸に住んでいるらしい。杉松がネコを渡すときに家を見てきたのだ。飼育環境を確認して飼い主を査定するという趣旨だったんだが、査定もくそもない、お釣りがくるほどの大豪邸だったという。

「上田の住んでた小部屋、あの家のトイレくらいしかなかったよ!」と杉松は言った。

「ていうかもう、この家自体、あの家のオマケみたいなもんだよ! たいへんだよ、ああいう家に住んでる人がいるんだよ!」

妙にうれしそうに、身振り手振りをまじえて語っていた。豪邸を身体で体験することは、問答無用でテンションを上げる。巨大なものはそれだけで人を興奮させるということか。

現在、ネネとトトは金持ちマダムのもとで元気に暮らしているようだ。美味しいものも食べていることだろう。杉松は「あたしも一緒にもらわれたかった」と言っていたが、これは少々無理のある考え。一人だけ二足歩行だし、人類だし。

f:id:premier_amour:20180108193207j:plain

3匹目の菊千代だが、これは今も家にいる。杉松は飼い主を探しているようだが、はたして見つかるんだろうか。それに、他のネコたちとも完全に仲良くなっている。私は家を出た身だから、もう飼っちゃえばいいじゃんと気楽なことを言うが、正式な飼いネコは4匹で止めておきたいらしい。ネコたちの老後を考えると、4匹が限界とのこと。しかし「ネコたちの老後」というのも、なかなかすごい言葉ですね。

ということで、杉松の家には現在、5匹のネコがいる。初音、影千代、セツシ、ミケシ、菊千代である。ネネとトトはしばらく滞在して去り、唯一のヒト科だった上田はとうとういなくなった。こう整理してみると、妙に生き物の出入りする家ですね。ほぼほぼネコですが。

居候生活の終わり

$
0
0

半年ほど前に一人暮らしをはじめた。長く続いた居候生活が終わった。現在、アパートの一室で生活している。もっとも、あいかわらず場所は京都だ。前の家もそれほど遠くない。区だけが変わった。

転がりこんだ当初、私は同居人に「二ヶ月くらいいる」と宣言していた。しかし、なんだかんだで、七年半いた。「上田は算数ができないのか」と同居人はあきれていた。たしかに、二ヶ月と七年半はぜんぜんちがう。「二ヶ月くらい」という言葉にふくまれる曖昧さを、どれだけ好意的に取っても、七年半という数字は出てこないだろう。小学校で九九を学び、中高と数学を学び、大学の工学部まで出ておいて、二ヶ月と七年半のちがいも分からない大人になる。これが人生のふかしぎなのか。

引越しがきっかけというわけでもないが、しばらく文章を発表できていなかった。

そのためなのか、このあいだ、グーグルに「上田啓太」と入れたら、「上田啓太 死んだ」とサジェストされた。反射的に「上田啓太死んだの!?」とおどろいたが、考えてみると、上田啓太というのは自分のことだ。一瞬、今ここにある肉体が何なのかよく分からなくなった。グーグル経由で自分が死んだことを知る。どことなく、ホラー小説っぽさがある。実はもう私は幽霊なのかもしれない。こういうの、意外と自分じゃ気づけないものですし。

ブログをようやく更新できた。書き手が幽霊だろうが、読んでるぶんには困らないでしょう。

しかし、ひさしぶりに自分のブログを見て気づいたが、最後の記事のタイトルが、よりにもよって、「ヘラクレスオオカブトはずるい」だ。昆虫に嫉妬して死んだ男みたいになっている。さすがの私だって、もうすこしマシな死に方をしたい。かっこ悪すぎる。「上田啓太 昆虫 嫉妬 死亡 なぜ」とかサジェストされてしまう。

今日は大晦日だ。もうすぐ夜の九時になる。

冒頭で一人暮らしをはじめたと書いておいてまぎらわしいが、じつは現在、前の家にいる。同居人が帰省したため、ネコの世話を頼まれたのである。えさをやり、糞の始末をした。もうすぐ年があける。ネコたちと2018年をむかえることになる。そして元旦の朝、一人暮らしのアパートに戻る。同居人はたぶん、実家の奈良でおもちでも食べていることだろう。

というか、もう家を出たから「同居人」という呼び方もおかしいんだが、このへんも考えねばならない。今後もブログに出てくるだろうし、いいかげん、適当な名前を付けなければならない。

なんとなく、いま、「杉松」というのを思いついたので、これにする。来年以降、元同居人のことは杉松と呼ぶ。あの女は杉松である。今後、日記に杉松という名前が出てきたら、「上田を長いこと住まわせていた女のことだな」と理解してください。

まあ、いまさら杉松とかいいだすと、長く読んでいる人は違和感で頭が破裂しそうになるかもしれませんが、がまんしてください。私なんかすでに死んでるんだから、違和感で頭が破裂するくらいなんですか。なにごともガッツです。

それでは、もうあと数時間ですが、よいお年を。来年もよろしくお願いします。

ハトの配色は奇をてらいすぎ

$
0
0

去年の夏、河川敷に座って、鴨川の流れをながめていた。川というのは見飽きない。作為がないからである。周囲にはハトがたくさんいた。まじまじとハトを見た。ハトもまた見飽きない。やはり作為がないからである。

と、言いたいところだが、ハトを見て思ったのは、首まわりの配色が奇をてらいすぎだということだった。全身は地味な灰色なのに、首のあたりだけ、蛍光のパープルとグリーンがざっくりと塗りたくられている。これはかなり大胆な色使いだろう。企画会議なら非常に揉めそうなもの。けっこう長いこと見ていたが、いっこうに納得がいかなかった。

ハトというのは日常的な鳥だし、そこらの公園に行けば一山いくらでポッポポッポやっているから、ついつい普通のものだと思ってしまうが、あらためて観察すると、こんな妙な鳥はない。そもそも、この歩き方はなんなのか。一歩進むごとに頭を前後に動かしている。

どんなお調子者も五分で恥ずかしくなりそうな、徹底的にひょうきんな動きである。すこしでも自意識があればやれたものじゃない。それを種族全体でやっているんだから見上げたものだ。遺伝子レベルで滑稽な鳥。親から子、子から孫へと滑稽を受け継いでいる。そりゃ平和の象徴と言われるわけだ。平和というのは、滑稽の長期的持続のことなのだから。

兵士の行進においてハトの首の動きを義務づければ、戦争など馬鹿馬鹿しくてやってられたものではない。我が国の兵士がハトのような首の動きで前進すれば、敵国の兵士もハトのような首の動きで前進する。どちらの兵士も耳まで真っ赤である。こんな状態じゃ、目もまともに合わせられない。「もう戦争やめましょう」となる。

ハトの眼というのもまた奇妙なものだ。外的な力で無理やりに見開かれたような眼をしている。まぶたに針金のフックをかけて、強制的に眼を開かせるとハトの眼になるんじゃないか。『時計じかけのオレンジ』の後半で、主人公があんな眼をさせられていた。

こう考えると、ハトは眼も動きも首まわりの色づかいも、すべてがおかしい。幻覚のような見た目をしている。あれは日常の鳥なんかじゃなく、ドラッグによる変性意識状態ではじめて目にするべき鳥じゃないのか。「あ、やばい鳥見えた」と言って頭をぶんぶん振るほうが、正解な気がする。

今後、ハトが見える人間は全員ラリッていると思って生きることにした。人類皆狂気。

ヘラクレスオオカブトはずるい

$
0
0

小学生のころは虫とりに夢中だった。虫とりあみと虫かごを持って近所を探険する。すると自然と虫にランクが生じはじめる。珍しい虫ほど価値は高い。そこらへんにゴロゴロ転がっている虫は捕まえても嬉しくない。

たとえばアブラゼミはランクの低い虫の筆頭だった。とにかく夏になりゃミンミン言っているし、一本の樹に十匹以上しがみついている。二週間もすれば全員死んで地面に転がっている。こんな虫は捕まえるまでもない。

しかし稀少なセミもいた。たとえばクマゼミである。これは非常にレアだった。一夏をとおして数匹見れればいいところ。だからクマゼミを見つけた日はテンションは上がる。絶対に捕まえたいと思っていた。ある時、夏の終わり、うちの郵便ポストでクマゼミが死んでいたことがあった。私は神さまの贈り物だと思っていた。

しかし京都で暮らしていると、クマゼミをけっこう見かける。生息分布の違いなのか、そのへんの地面でゴロゴロ死んでいる。長い月日を経て、クマゼミの価値は暴落した。貨幣のだぶつきに似た状態。クマゼミの流通量過剰。

トンボも捕まえていた。これはオニヤンマが王様だった。ちなみに最低ランクはシオカラトンボで、これは腐るほど飛んでいた。腐りながら飛んでいたんじゃないかと思えるほどだ。イトトンボというのもいて、これはその名のとおり、糸のように細い身体を持っていた。レア度が高いから好きだった。

しかし子供は昆虫にたくましさを求める。よって、イトトンボにはいまいち乗れない。となれば、オニヤンマである。レア&たくましい。オニヤンマは休日に父親の車で連れていってもらえる遠くの公園でしか見ることができず、まれに近所を飛んでいるのを見た時など、うちの近所で芸能人を見かけたような興奮を感じていた。

オニヤンマよりもレアな存在として、ギンヤンマというものもいた。これは数年に一度しか見ることができない。オニヤンマの銀色バージョンで、あの頃の私はすぐにファミコンの知識を応用しようとするから、「2Pカラー」という発想をしていた。オニヤンマの2Pカラーがギンヤンマなのである。

カナブンもよく捕まえていたが、これはエメラルドグリーンのカナブンが最上級だろう。茶色のカナブンなんかは雑魚である。似た形では、カミキリムシというのもいた。ゴマダラカミキリという種類で、これはアパート前の地面に落ちていたが、ボトボト落ちているわけではないから、それなりに評価の高い虫だった。

アゲハチョウの幼虫も見た。色使いは美しかったが、こいつは頭のあたりから黄色の触手を出すという非常にきもちのわるい動きをする。しかもその触手が臭い。これが外見のあざやかさをだいなしにしていた。

そしてカブトムシ、これはもちろんキングである。そのなかでも最強はヘラクレスオオカブトだった。昆虫図鑑の存在感が大きかった。図鑑を見ながら妄想をふくらませる。とくに海外の昆虫は凄い。私は幼少期からヘラクレスオオカブトに強い執着があるんだが、これは完全に図鑑のせいだった。日本の日常生活には一切登場しない。だから知らない人はまったく知らないのかもしれん。南米に生息する世界最大のカブトムシである。

むしや本舗 ヘラクレスオオカブト成虫 オス(ヘラクレスヘラクレス) 140~143mm [生体]

カブトムシなのに、身体にイエローが入っている。この色づかいは革命だった。ほとんど禁じ手と言ってよい。カブトムシなのに黄色を使う。でしゃばりだと批判されても仕方ない。しかし最強なのだ。最強だからこそ許される。スタンドプレーにならない。

かぶき者であり、同時に最強である。いくらなんでもあんまりだろう。こういうやつはふつう、二番手じゃないのか。主人公の茶色いカブトムシがいて、ピンチのときにだけ、謎の昆虫としてヘラクレスオオカブトが助けに来る。それならば分かる。しかし主人公がヘラクレスオオカブトなのだ。

とにかく子供の頃から、私のヘラクレスオオカブトに対する感想は「ずるいよ……」の一言に尽きる。ヘラクレスオオカブトはずるい。


aikoとゴリラの雪どけ

$
0
0

ゴリラの問題は終わったと思っていた。それは過去のことだったはずだ。aikoとゴリラの綱引きは終った。私はもはやaikoとなった。それでよかったはずだ。しかし今ふたたび、ゴリラが問題としてせりあがってきている。aikoとゴリラの綱引きは終っていなかった。

だが、このブログにおける「ゴリラ」にせよ、「aiko」にせよ、非常に特殊な用語になっていることは事実だ。それは一般的な意味合いからかけ離れている。混乱を避けるためにも、まずは整理しておいたほうがよいだろう。

数年前、「aikoとゴリラの綱引き」という文を書いた。そこではaikoの勝利に終わらせた。これが当時の結論だった。「ゴリラとしてふるまえ」という社会からの要求によってゴリラのように振るまっていた男がいて(ハリボテとしてのゴリラ)、その男が自己の内側に、背の低い女としてのaikoを発見する。その発見によって、ゴリラ的なものとaiko的なものの葛藤が起こる(aikoとゴリラの綱引き)。その葛藤の果てに、自己の内側にaikoがいることを受け入れる(綱引きの終わり)。そのとき、「俺はaikoだ」という発言が生まれる。

私は、これで終りだと思っていた。あとは自己の内にあるaikoを徹底的に注視すること、掘り下げることだと思っていた。だが、その先に残り半分としてのaikoを見つける段階があり、それは、ゴリラとしてのaikoだったんじゃないか。

考えてみれば当然のことだが、実際のaiko(ミュージシャンとして活動するaiko)は、ゴリラ性を持っている。そうでなければ、二十年にわたってコンスタントに作品を発表し、全国規模のライブツアーを毎年のように行うことが可能であるはずがない。aikoの中には、背の高い女もいる。元気のない女が展開する不安定な歌詞世界を、元気のある女としての基盤が支えているのだ。

もしも精神的に不安定なだけの人間がミュージシャンをやれば、一枚か二枚のアルバムを発表したあと、長期的に休止するか、フェードアウトしてしまうだろう。巨大な反響に耐えられないからだ。その場合、メジャーな場で活動するのではなく、マイナーなところで、カルト的な人気を生むだけで終わるんじゃないか。

「aikoとゴリラの綱引き」のすこし後に、「aikoは元気な女なのか?」という文を書いた。ここで私は、aikoのなかにいる「元気な女=ゴリラ性」をないものとしたのだろう。このブログにおける「aiko」を定義するために。それは、あの時点では必要なことだったと思う。私が音源のみを熱心に聴き、ライブ映像などは観ず、インタビューや歌番組やラジオなどの発言に興味を持たなかったのも、自分の内側で研ぎ澄まされた「aiko」という概念の純粋性を保ちたいがゆえだったんだろう。

ある段階において正しいことが、次の段階では障害としてあらわれることもある。私は次の段階に進まなければならない。aikoとゴリラの綱引きに戻れば、綱がなければ、ひとりの人間のなかに、aikoとゴリラは問題なく同居する。そこに綱を用意してしまうから、綱引きがはじまる。aikoとゴリラのどちらかでなければならないという、その思い込みこそが綱であり、はじめから綱引きなどしなければよかった。aikoとゴリラは綱を引き合うべきではなく、ただ握手をすればよかったのではないか。

傷付け合う事が起きたら これ以上悲しまないように
最後まで何があっても 忘れないで
あなたと握手
aiko『あなたと握手』

私は、はじめからゴリラであり、aikoでもあったのだが、自己の内側にいるゴリラをないものとし、自己の内側にいるaikoをないものとし、そのうえで、ハリボテとしてのゴリラに身を包んでいた。それが十代後半から二十代前半の私だったんだろう。面白いのは、すでにゴリラを内在した人間が、それを存在しないものとしたうえで、ハリボテとしてのゴリラを別に用意してしていたことで、それは、自然な笑顔をもった人間が、それを抑制したうえで、ぎこちない作り笑顔で世の中を渡ろうとするようなものだったんだろう。

最近、「aikoさん」という用語を導入するべきではないかと考えている。このブログにおける「aiko」は、歌手aikoの歌詞世界から私の頭のなかに構築された存在である。それは歌詞における「あたし」とイコールで結びつけられ、実際のaikoは意図的に捨象されている。それに対し、「aikoさん」は歌手であり、人間であり、この世に肉体をもって実在している。そして私はaikoさんのことを、一人の作り手として、すごく尊敬している。

そうした意味で、私はaikoではあるがaikoさんではなく、しかし、aikoさんの姿勢から学ばなければならないし、aikoさんのようにありたいと思っている。それは自己の自然なゴリラ性を認めることにもなるのだろう。このとき、長く続いたaikoとゴリラの綱引きが、本当の意味で終わりを迎える。それが、aikoとゴリラの雪どけである。私はこれからもaikoを聴くだろうが、今後は同じくらいに、ゴリラも聴くんじゃないだろうか。もっとも、ゴリラは音源を一切リリースしていないんだが。

歩きスマホの人間は、あかんぼのように周囲を信頼している

$
0
0

歩きスマホをする人々がいる。社会問題にもなっているようだ。しかし私には、怒りよりもおどろきのほうが大きい。何におどろくかといえば、世界への圧倒的な信頼感におどろくのである。私はあそこまで周囲のすべてを信頼できない。

とくにすごいのは、スマホの画面を凝視しながら歩きつつ、さらにヘッドホンで耳まで覆っている人間で、たまにそんな人間がこちらにずんずん直進してくるんだが、あれは何だ? パラレルワールドに迷いこんだか? 別の世界線のできごと?

目や耳というのは、周囲を警戒するために付いている。それを遮断したまま、大量の人間がいる空間を歩きまわるのは肝が座っている。街中には色々と変な人間もいると思うんだが、そんなに周囲を信頼できるのか。歩きスマホの人間は、街と母親の区別が付いていないのか。おまえの住所は胎内か。

漫画『スラムダンク』の一場面を思い出した。山王戦終盤、三井は体力の限界をむかえ、それでも必死でプレイを続ける。三井はブランクが長いため、ひんぱんに体力の限界をむかえるのである。それを見て客席のだれかが言う。

「やつはいま、あかんぼのように味方を信頼することで、なんとか支えられている……」

すなわち、歩きスマホの人間は、あかんぼのように周囲を信頼することで、なんとか歩きスマホを維持している。歩きスマホの人間を支えているのは、自分が突っ込んでいけば他人はかならずよけてくれるという信頼、気づかないうちに車道に出ていても車のほうでしっかり停止してくれるという信頼……。

というか、なにも考えてないだけな気がしてきた。あかんぼのように周囲を信頼することで歩きスマホを維持する人間のリアリティのなさ。そんなやついるか。しかし、歩きスマホには周囲への無自覚な信頼感が必要なのは事実。自分が歩けば海だって割れるという確信。歩きスマホの人間は自意識がモーゼ。まずい、どんどんかっこよく思えてきた。

ゾンビとタフグミ

$
0
0

深夜のコンビニは人の思考を停止させるのか。それとも、たんに私の問題なのか。とにかく真夜中にコンビニに行く時の自分は非常にぼんやりしている。感情が茫漠としている。ほとんど死んでいるも同然である。そのありようはゾンビの近似値だ。

それゆえに、予想外のことがあれば途端に破綻する。アドリブで修正することもできない。ゾンビに即興性はないのである。今日がそれだった。

当初の予定ではグミを買うはずだった。品名も決めていた。タフグミである。現在の私はこれにハマッている。だからタフグミのことを考えながらコンビニまでの道を歩いた。もっとも、そのありようはゾンビの近似値であるゆえに、「タフ……グミ……」程度の思念しか頭を流れていない。それでも店にタフグミがあれば問題はなかった。

しかし、なかったのである。タフグミというのは微妙な立ち位置の菓子で、知名度も低く、定番の菓子とは言えない。店によって、置いていたりいなかったりする。私の行ったセブンイレブンにはなかった。

それですべてが瓦解した。目的のものがないまま、店内を徘徊するはめになった。なにも買わずに帰るわけにもいかん。残されたのは、深夜三時にコンビニを徘徊するゾンビだ。

帰宅後、袋のなかを見た。日清カップヌードル、ジム・ビームのハイボール350ml缶、おっとっとのうすしお味、そして、ブラックサンダーの偽物みたいなチョコが入っていた。まったくビジョンが見えない。全体像が描けていない。ゾンビの買い物はこれだから困る。なぜ、グミのかわりがこれなのか。グミの空虚を埋めようとして、まったく埋められておらん。シャキッとしろ。

おっとっとのうすしお味はカップ型で、こんな商品があることは今日コンビニに行くまで知らなかった。自分にとって、レギュラーメンバーでも何でもない。どうも、先にカゴに入れたカップヌードルの印象に引っ張られて、似た形状のものを買ってしまったんじゃないか。深夜のゾンビ状態では、どれだけアホらしいことも起こりうる。

ちなみに、ブラックサンダーの偽物みたいなチョコの正式名称は、セブンプレミアムの「ザクザク食感のブラックブロックチョコ」で、ゾンビ状態でも、ブラックサンダーを意識した商品だと判断できた。インス……パイア……。

初恋の記憶はパピプペポ

$
0
0

成人式に出席したとき、「未来の自分に宛てた手紙」を読む機会があった。完全に忘れていたんだが、小学生のころ、「二十歳になった自分に手紙を書こう」という企画があったらしい。担任の教師がしっかりと保管していたらしく、その場で生徒のひとりひとりに渡していった。

みんな興奮していた。それは喜びによる興奮というよりも、うぎゃあやめろ的興奮である。大人になってから小学生の自分が書いた手紙を読まされるなど罰ゲームに等しい。私も絶対に読みたくないと考えた。

覚悟をきめて担任に渡された封筒を見た。そこには「はたちマンのぼくへ」と書かれていた。それだけで心が折れそうになった。まさか宛名の時点でスベってるとは思わないから。十年の時をへて、宛名でスベる。なんて怖ろしい子。

仕方なく内容も読んだ。そこに書かれていたのは、面白さ以前に、十年後の自分に読まれることを想定できていない文章だった。要するに内輪ネタであり、十年後の自分すら内輪から外れていたのである。

たとえば、「いまでもPさんのことが好きですか?」という一文があった。当時の自分が好きだった女子を想定して書いているようだが、まったく心当たりがない。それにPというのは、イニシャルトークでありえないアルファベットだろう。これじゃあ、パピ田パピ子みたいな名前になってしまう。

それでうっすら思い出したのは、当時、「たとえ未来の自分が相手でも、好きな女子の名前を書くのは恥ずかしい」という葛藤があったことだった。だからイニシャルで表記しようとした。しかし、「いや、アルファベットで書くのも恥ずかしい」という自意識もあり、結果、イニシャルも変えてPにした。アホか、と思う。未来の自分にまで好きな女子を隠すな。そのせいで、十年後のおまえはパピ子みたいな女を想像している。おまえのくだらない自意識のせいで、初恋の記憶がパピプペポだ。

パピ子は、腰のあたりでパキッと二つに折れる。血のかわりにチョコアイスが流れている。冷凍庫に住む女である。100円で買える安い女でもある。夏場は太陽に照らされてドロドロになる。おまえの彼女、駅前の広場で溶けてたよ。友人に言われてあわてて走る。パピ子との別れの原因は、今年の夏が暑すぎたせい。それがおまえの初恋の女なのか。よく冷えた初恋だこと。

aikoにとって言葉とは何か?

$
0
0

泡のような愛だった (初回限定仕様盤)

「あなた」の言葉が「あたし」の身体に侵入してくる。それがaikoの歌詞世界である。aikoにとって、言葉は器用に使いこなすことのできる便利な道具ではない。言葉があまりに強く肉体と結びついているからだ。『LoveLetter』の歌詞を見よう。

何度も何度も何度も読み返そうか
だけどそんなに読んだらあなたは嫌かな
何度も体に入ってくる言葉が苦しい 

「あなた」の手紙にまったくうっとりしていないところが、いかにもaiko的な描写だと言える。aikoにとって「あなた」の手紙を読むことは、言葉をみずからの体内にいれて苦しむことなのである。むろん、「苦しいなら読むなよ」というツッコミもありうるが、それはaiko的世界への無理解から起こる。「好き」という感情が苦しみと結びつくことを知らない人は、端的に言って、いまだaikoを知らないのである。

『彼の落書き』という曲では、「あなた」への想いが、「あたし」の体じゅうに文字として浮かび上がってくる。

落ちぬ取れぬ消えぬあなたへの想いは正に
体中の落書きみたい
こすって赤く腫れてしまうから今すぐ
その手でぎゅっと強く包み込んで

「体中の落書きみたい」という比喩は、すぐさま「こすって赤く腫れてしまう」と肉体化していく。言葉と身体が強烈に結びついている。肉体に浮かびあがった想いはどうしても消えてくれず、aikoは必死で体をこするのだが、肌が赤く腫れるだけで、文字は消えてくれない。「今すぐその手でぎゅっと強く包み込んで」という着地点のかわいらしさと、そこに至るプロセスの生々しくグロテスクなイメージの両立が、これまた非常にaiko的な逸品だと言えよう。

熱いふとももに落書き
二人離れぬように名前書いた
細い薄い線だけど 
たやすく消えたりしないわ
心に染み込んで
『リップ』

『彼の落書き』では想いが文字として肉体に浮かび上がってきたが、『リップ』では反対に、肉体に書かれた文字が「心に染み込んで」ゆくことになる。

このように、言葉と肉体があからさまに関係するのがaikoの世界である。「あなた」の書いた文字は体内に侵入し、「あなた」への想いは体じゅうに文字として浮かびあがってくる。そしてふとももに文字を書けば、当然のように心へと染み込んでゆく。それでは恋愛においてもっとも重要な文字とは何か。それは『リップ』でふとももに書かれたもの、すなわち「名前」である。

aikoにとって名前とは何か?

『キスの息』の歌詞を見よう。

手帳に書いた名前を
上から黒く塗りつぶしたけれど
指でなぞるたびに
あたしの心の中にあなたが入ってく

ここでは、非常に複雑な操作がおこなわれている。まず、aikoは「あなた」の名前を手帳に書いている。そしてそれを黒く塗りつぶしてしまう。だがそれでも、指でなぞるたびに、心の中に「あなた」が入ってきてしまうという。

ここでわれわれが確認しなければならないのは、恋愛は固有の名前を必要とするということである。二つの名前が結びつくことが恋愛なのであって、二つの性器が結びつくことが恋愛なのではない。それは生殖という別のジャンルである。

どこかにいい男、いい女がいないかという発想は、どこかにいい性器はいないか、いい遺伝子はいないかという発想であって、ヒトの生殖活動における一プロセスにすぎない。生殖は生殖、恋愛は恋愛である。どちらが良いかという話ではなく、これらは単純に別のものであり、生殖と恋愛を取りちがえたとき、悲劇は生まれる。

ここですこしaikoをはなれ、漫画『君に届け』の一場面を参照しておこう。コミックス1巻、主人公の爽子は放課後に一人で残り、クラスの出席簿を作っている。その最中、爽子は恋の相手である風早の名前をただ見つめる。そこに当の風早がやってくる。風早は出席簿の作成を手伝うと言い、ペンを借りると、そこに爽子の名前を書く。

爽子が風早の名前を書き、風早が爽子の名前を書く。このさりげない共同作業によって、お互いが「あなた」の名前を確認する。風早は教師に呼びだされ去っていくが、爽子は風早の手で書かれた自分の名前を見つめ続ける。ただ文字の並びを見つめるだけのことが、そのまま爽子の心に幸せな感情を生み出す。特定の名前が自分にとって特別なものになるのは、こうした瞬間である。

これを恋愛のはじめの幸福な一場面とするならば、aikoの『キスの息』で描かれたのはその先である。そこでは「あなた」が固有の名前を持ち、他の誰にもかえられない存在であることが苦しみを生み出している。その苦しみゆえにaikoは手帳に書いた「あなた」の名前を黒く塗りつぶすのだが、その行為は何の効果をもたらさず、塗りつぶした名前すら、指でなぞれば心の中に入りこんでしまう。

名前をとおして、「あなた」の固有性を確認する。このとき、はじめて恋愛が生まれる。恋愛とは、関係の固有性を取り戻すための戦いである。恋愛が失なわれれば、あとに残るのは、名もなき性器が織りなす無数の結合にすぎない。みもふたもない言い方をすれば、それはチンコとマンコの順列組み合わせである。

よって、われわれには二つの選択肢が与えられている。特別な名前が存在しないむなしさを生きるか、特別な名前が存在するゆえの不安を生きるか。aikoが生きるのは後者の世界である。

Viewing all 355 articles
Browse latest View live