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aikoが「好きだけじゃ済まなくなりそう」と言い出した時の、まだ変身を残していたのか感について

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長いタイトルがそのまま今回の要約である。

今日も日常のひとつの所作としてaikoを聴いていたんだが、『秘密』という曲でaikoが「なんだか好きだけじゃ済まなくなりそうで」と歌っているのを聴いて、あらためてその衝撃に打たれた。

はじめにみなさんに知っておいてほしいのは、aikoの使う「好き」は普通の人間の「好き」とは別ものだということである。普通の人間が日常的にホイホイ使う「好き」とaikoの「好き」を同一だとみなしてはならない。

たとえば気まぐれで入ったカフェの珍デザートを食べた女子の言う「あたしこれ好きかもー」をカナブンとするならば、aikoの「好き」は巨大なゾウの足である。ズシンという音の一発でカナブンはつぶれて死ぬ。

aikoが「好き」と言った場合、「あなたのことで18年200曲書けます」くらいの意味が平気で込められているのであり、この人が何かを「好き」と言ったならば、それはもう身震いするほどに凄まじいことなのだ。

ようやく本題に入れる。

2008年の『秘密』という曲では、そのaikoが言う。

 これ以上
 想いが募ったら
 なんだか
 好きだけじゃ済まなくなりそうで

少しは私の衝撃が伝わっただろうか。あのaikoが「好きだけじゃ済まなくなりそう」と言っている。嵐がくる、大地が揺れる、世界が滅ぶ予感がする。

90年代に子供だった男として言わせてほしい。これは『ドラゴンボール』においてフリーザがまだ変身を残していた時の衝撃と同じである。すでに圧倒的な強さを見せていたフリーザに先があったのと同じ意味で、すでに圧倒的な「好き」をみせていたaikoにも先があった。そのことに私はふるえる。ふるえる以外の生体反応はない。

aikoがフリーザならば、両者の違いはどこにあるか?

フリーザは成熟した大人だから変身を制御できる。フリーザにとって変身は戦略の一部だ。普段は強すぎる力をおさえている。必要に応じて己の意志で変身する。しかしaikoは「好きだけじゃ済まなくなりそう」と言う。そこに込められているのは「制御不能」のニュアンスだ。

あらためて引用しよう。

 これ以上
 想いが募ったら
 なんだか
 好きだけじゃ済まなくなりそうで

文字だと一瞬で読めてしまうが、ぜひ実際の曲を聴いてほしい。この歌詞は曲中でサビの直前に配置されており、非常にゆっくりと焦らすように歌われているのだ。無理やりに文字で再現するならば、

 こ~~れ~~い~~じょ~~お~~~
 おもぉ~~いぃ~~が~~~
 つ〜〜のぉ~~~~~(余談:ここの高音気持ちいい)ったら~~~~

戦闘力がすこしずつ増幅して最後はスカウターを爆発させるように、聴いているこちらは焦らされながら、aikoの「好き」が限界を超えていくさまを体験させられる。それは期待と恐怖の入りまじった感覚だ。あのaikoが、カナブンに対するゾウの足であるaikoが、好きだけじゃ済まなくなる。果たしてどうなってしまうのか!?

その答えは『秘密』のサビを読めば分かる。

 

サビの七行詩を解読する

好きだけじゃ済まなくなったaikoはどうなったか?

その答えを知るために、われわれはこれからサビの七行詩を読むことになる。

 声を聞かせて
 親指握って
 柔らかいキスをして
 何処にいても思い出して
 我が儘な身体と泣いてる心
 そっけないふりでごまかす
 あいしてる

これが『秘密』のサビであり、好きだけじゃ済まなくなったaikoの辿りついた場所だ。まずは前半の四行を読むことにしよう。

 声を聞かせて
 親指握って
 柔らかいキスをして
 何処にいても思い出して

矢継ぎ早にaikoからの要求が出てくるわけだが、四行目の飛躍に私はaikoの真髄を見る。

ひとつめの要求は耳の要求だ。声を聞かせて。
ふたつめの要求は指の要求だ。親指握って。
みっつめの要求は唇の要求だ。柔らかいキスをして。
そして最後は記憶の要求だ。何処にいても思い出して。

耳、指、唇というふうに、恋愛における主要部位を次々と要求したaikoが最後に求めるのは「記憶」だ。最初の三つとなにが変わったのか? 最初の三つは「あなた」がそばにいる時の要求だった。それは具体的な接触を求める。しかし最後、aikoは観念に飛ぶ。

何処にいても思い出して

ここで「あなた」に求めるものはいきなり膨れあがる。もはやそばにいる時だけではない。aiko不在の状況でも常にaikoを想うことが求められている。四行目でaikoが飛躍したとはそのような意味だ。最後の最後でaikoは「あなた」の記憶への永住権を求めるのだ。

これは重たい……。

そう思われたかもしれない。好きだけじゃ済まなくなったaikoの結論は重たい。たしかに重たくなるだろう。あのaikoが好きだけじゃ済まなくなったんだから。しかし結論を急ぎすぎてはいけない。あのaikoが平気で重たい女だと思うか? 自分の重たさに無自覚でいられるような女だと思うか?

まだ『秘密』のサビは三行残っている。

われわれは後半の三行を読まねばならない。

 我が儘な身体と泣いてる心
 そっけないふりでごまかす
 あいしてる

徐々に言葉は減る。反比例して感情はたかぶる。そして最後に残るのは「あいしてる」の五文字だ。先に言っておこう。この七行目こそが好きだけじゃ済まなくなったaikoの辿りついた場所である。それがこの記事の結論だ。

好きだけじゃ済まなくなったaikoは「あいしてる」に辿りついた。「好き」の先が「あいしてる」? これまたずいぶん平凡な着地点ではないか? それくらいのことは誰でも思いつきそうなものだ。結局、aikoの変身は大した驚きを生まなかったのではないか?

本当にそうか?

この問いに答えるために、われわれは謎めいた五・六行目を読まねばならない。

 我が儘な身体と泣いてる心
 そっけないふりでごまかす

先に六行目を見よう。aikoは「そっけないふり」でごまかしたという。何をごまかしたのか? 「四つの要求」が自分の内にあることをごまかしたのだ。耳、指、唇、記憶を「あなた」に求めていることをごまかした。

ここで理解されることがある。サビの前半で歌われた要求は、あくまでもaikoの「内面」にすぎなかったのだ。それは実際の言葉として空気をふるわせることがなかった。

それを踏まえると五行目の「我が儘な身体」の意味が理解される。これはaikoの内にある「四つの要求」を指しているのだ。注目してほしいのは、これをaikoは「我が儘」だと自覚していることだ。「好き」の先にあらわれた四つの要求の重たさをaikoは自覚しているのだ。

これが分かると「泣いてる心」の謎もとける。要求の重たさを自覚したから「泣いてる心」なのだ。自分の要求を「我が儘な身体」だと自覚したがゆえに、aikoの心は泣いているのだ。

あなたの声が聞きたい。あなたに親指を握ってほしい。あなたにキスをしてほしい。そして何処にいてもあたしのことを思い出してほしい。「好き」の先に生まれた感情が巨大すぎることを自覚したaikoは、それを「我が儘な身体」と切り捨てて、「泣いてる心」のまま、「そっけないふり」でごまかした。そしてかわりに差し出されたのが以下の五文字だ。

 あいしてる

aikoは自己の内側で膨れ上がった強すぎる感情をおさえ、人が人を想う時に使われるもっとも普遍的な五文字にすべてを託した。最後まで本当の要求を口にすることはせずに。

だからこの曲のタイトルは『秘密』なのだ。

 

結び

 数えればきりがない
 あなたにして欲しいことが
 怖い程たくさん
 『ロージー』

 大きな鞄にもこの胸にも
 収まらないんじゃない?
 恥ずかしい程考えている あなたのこと
 『かばん』

あなたにして欲しいことが「怖い程たくさん」だと言い、あなたのことを「恥ずかしい程考えている」と言う。そう、aikoは「怖い」のである。「恥ずかしい」のである。制御不能の「好き」に対する、この自意識こそがaikoなのだ。

だからaikoは「好き」が暴走する手前に必死で踏みとどまろうとする。しかし、どうしても好きだけじゃ済まなくなってしまう。「我が儘な身体」と「泣いてる心」に分裂してしまう。その分裂の中で音楽を生み出し続ける。それがaikoという人なのだと私は考えている。

 

 

秘密

秘密

 

 


グミの脱落

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長いことグミを噛んでいない。

最後にグミを食べたのは小学生か中学生にまでさかのぼるのではないか。

今でも食べる菓子がある一方で、食べなくなった菓子がある。芋けんぴは今でも食べる。ポテチ類も今でも食べる。ポッキーやプリッツや板チョコも食べる。なのにグミは脱落した。グミに何があったのか。だから店で買ってみたのである。果汁グミ。文字どおり果汁の入っているグミだ。こんなものを買うのは二十年ぶりじゃないか。

小学生の頃は果汁というものが大好きだった。小学生とは果汁に反応する生き物である。それは売る側もしっかり理解しているんだろう。パッケージには大きく「果汁」の二文字が記されている。しかし三十を過ぎた自分には果汁の魅力などさっぱり分からない。そこを推されても困る。飲みものでも水とお茶が最高。

ひさしぶりに噛んだグミは、くにゃくにゃしていた。こんなもんだったか、と感じた。噛むとなつかしい果汁が口に広がった。こんなもんだったか、と感じた。何度か噛んで飲み込んだ。こんなもんだったか、と感じた。

とにかく美味いでも不味いでもなく、こんなもんだったかと感じた。ドラマ性なし。グミとの二十年ぶりの再会に何のドラマも生まれなかった。これはちょっとだめ。生き別れた親子の再会でこうなると興ざめ。母親が大きくなった息子を見て、こんなもんだったか。息子のほうも母親を見つめながら、こんなもんだったか。

グミでよかったのかもしれない。

ちなみに、果汁グミといっしょに粉のついたグミも買った。こちらは今でもおいしかった。「粉のついたグミ」という説明の適当さも我ながらひどいが、あれは粉のついたグミと言うしかない。レモン味のグミに白い粉がついている。粉があるなら今でもおいしく食べられる。こんなもんだったかとも感じない。

となると、生き別れた親子も粉まみれで再会すればいいと考えてしまうが、これは明確に間違いだろう。むしろだいなしになる。母親が粉まみれの息子を見て、こんなもんだったか。息子も粉まみれの母親を見て、こんなもんだったか。生き別れた相手が粉まみれだった場合、「こんなもんだったか」という表現は非常にしっくりくるのである。

そういえば、懐かしついでに綿パチも買った。

これは本当に何なのだろう。口の中がパチパチする。本当にそれだけである。うっとうしい。うっとうしい!? 綿パチを食べてうっとうしいと感じる大人にだけはなりたくなかった。これはショックだ。しかし、綿パチを食べて「口ン中パチパチする~!」と興奮する三十すぎの男も、それはそれでイヤですね。素朴も突き抜けるとアホ。

もうテレコという言葉から逃げない

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関西人は「テレコ」という言葉を当然のように使う。これは以前から思っていた。知り合いの関西人も使うし、関西芸人のトークを見ていても普通に出てくる。いちいち意味を説明する必要のないほど浸透しているようだ。しかし私はずっと意味を知らなかった。

今日、三十六歳女性(奈良出身)に「テレコ」と言われた。ぷよぷよのアプリのルールをたずねたとき、「ここがテレコになっててね……」と言われたのである。それで思った。向き合わねばならない、と。

知らない言葉を放置しておくこと。これは人を落ち着かない気分にさせる。人生が長くなるほど微妙な距離感の言葉は増える。たまに耳にするが意味を知らない言葉。これはたまに顔を会わせる仲のよくない知り合いのようなものである。毎回、少しの緊張がある。

今こそテレコの意味を知るときだ。私は聞いた。テレコとは何なんだと。教えてくれと。俺はもう、テレコから逃げないからと。

「"逆"ってことだよ」と三十六歳女性は言った。

「逃げないって何よ?」

あっさり言われて、そんな簡単な意味だったのかと思った。「テレコになってる」は「逆になってる」と頭のなかで翻訳すりゃいいのか。

一応ネットでも調べてみた(「あたしの言うことが信用できないのか!」と女性に言われながら)。似たようなことが書かれていた。「入れ違いになっている」とか「あべこべになっている」ということらしい。

どうも私は語感から「入れ子構造」ということばを連想していて、テレコというのを複雑な構造をさす表現だと思い込んでいたようだ。テレコ構造とでもいうべきもの。同じ箱に入っていた言葉として「ウィンザーノット」があり、これはネクタイの結びかただが、具体的にどんな結びかたなのかは知らん(もう五年以上ネクタイ結んでない)。

なんとなくテレコもそういうものだと思っていた。図解されるものだと。図解されてぎりぎり理解できるものだと。「徹底図解!テレコの秘密」という特集が組めるほどのものだと。勝手に敵を巨大にしていたようだ。さっさと調べないからこうなる。

もうテレコという言葉がいつ来ても大丈夫だ。しかし実際は年に一度聞くか聞かないかである。よって、しばらくはテレコ待ちの人生になる。はやく誰かにテレコという言葉を使ってほしい。テレコという言葉を使っている現場に早急に立合って、意味のわかる喜びを噛みしめたい。

本日をもって、テレコから逃げ続ける人生が終わり、テレコを待ち続ける人生がはじまった。逃げたり待ったり大変ですね。

レンタルCD屋でビーフジャーキーをすすめられた

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Morning Phase

近所のレンタルCD屋に行った。最近の自分は時代の流れに逆行してCDを借りているからだ。今日はインディー系の洋楽を借りると決めていた。気になっていたアルバムを三枚借りた。ベックとウィルコとアヴァランチーズである。

ウィルコというのはアメリカのバンド。アヴァランチーズはよく知らないがバンド。そしてベックは非常に有名なアメリカ人である。まともに説明する気がなくてすまない。インターネットにたくさん情報があるので調べてください。

店内をうろつきながら思ったんだが、このご時世、レンタル業は厳しいようだ。店内で菓子やオモチャを売っている。数年前はこんなものはなかった。徐々にレンタル部分の面積が減り、オモチャと菓子のコーナーが増えているのだ。今日はとくにひどかった。CDを持ってレジに行くと、店員にビーフジャーキーをすすめられた。

「これいかがですか? アメリカで人気ナンバーワンのビーフジャーキーなんですよ!」

元気よく言われて反射的に吹き出した。いくらなんでも唐突すぎる。すると店員も吹き出した。店長の命令で仕方なくすすめていたんだろう。そりゃそうである。何故レンタル屋でビーフジャーキーなのか。二人とも吹き出したことで店員の接客からマニュアル感が消えた。不条理を共有すると結束は強まるものだ。

「いらないですか、ビーフジャーキー」

「ビーフジャーキーはいらないです」

「アメリカで人気ナンバーワンなんですけど」

「いらないっすね」

「ナンバーワンなのに?」

「ナンバーワンでも」

二人ともヘラヘラしていた。

店員とヘラヘラ感を共有すると、少し楽しい。

CDを受け取って店を出た。帰り道で考えたんだが、ナンバーワンうんぬん以前に、私はビーフジャーキーと言われると「犬?」と思ってしまう。アメリカで人気ナンバーワンだろうが、私の中じゃアレは犬が食ってるもんである。CDを借りたはずなのに、レジぎわで犬の食ってるもんをすすめられる。犬のように扱われている。その面白さもあったかもしれん。

しかもそんな時にかぎって、私が借りたのはベックとウィルコとアヴァランチーズである。ベックとウィルコとアヴァランチーズを聴く犬だ。めちゃくちゃ渋い。非常にシックな趣味の犬である。ベックとウィルコとアヴァランチーズを聴いている犬がいたら好きになってしまいそうだ。ネコ派の自分もさすがにくつがえる。

ベックとウィルコとアヴァランチーズを聴く犬には色々と質問してみたい。犬は人間よりもずっと耳がいいから、細かい音まで聞き込むことができるだろう。このあいだ出たレディオヘッドの新譜あたりを絶賛してくるだろうか。

「トム・ヨークの音楽は、いつも俺の鼻をビショビショに濡らしてくれる」

尻尾をブンブン振りながら言われる。

ベックとウィルコとアヴァランチーズを聴く犬はライブにも行く。しかし迷い犬扱いされてしまう。どの人間よりも真剣に聴いているのに、単なる迷い犬扱いである。これはかわいそうだ。フジロックに行っても現地の野犬だと思われる。棒でシッシッと追い払われてしまう。ベックとウィルコとアヴァランチーズを聴くほどの犬なのに、この仕打ちはひどい。ベックとウィルコとアヴァランチーズを聴く犬なのに。

そろそろ、ベックとウィルコとアヴァランチーズと言いたいだけの自分になってきた。語感の気持ちよさに負けてしまった。悪い癖である。ひとつ気に入ると、なしくずし的に語感以外のことがどうでもよくなってしまう。語感に負けて舌の奴隷になる。

犬以下である。ビーフジャーキーを食べよう。

女の胸を「バスト」と呼んだ時のすさまじい中年くささ

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ネットを見ていたらバストアップの広告が表示された。

それで思ったのは、女が胸を大きくしようとする場合、いまだに「バスト」という言葉が普通に使われるということだった。そこに違和感はない。あるいはバストアップにかぎらず、女性誌では「バスト」という表現が普通に使われている気がする。あくまでも印象論に過ぎないが(女性誌読んでないし)。

私は「バスト」というのを死にかけの表現だと思っていた。男の欲望の対象としての乳房を表現するときに「バスト」と言わなくなって久しい。だから欲望の対象としての乳房を「バスト」と呼ぶと、すさまじい中年くささが発生する。

ここに「〇〇クン」という呼称がつけば完璧で、たとえば「香織クンの見事なバスト」と言えば、立派な中年が完成する。立派な中年を作りたいときは、とりあえず女をクン付けで呼ばせて、バストを褒めさせておけばよい。

現代においては、欲望の対象としての乳房をバストと呼ばない。おっぱいと呼ばれることが多い。しかしこれは子供っぽさが気になる。もっとも、バストに比べると微妙で、気にしない人も多そうだ。私個人の感覚では抵抗があるという話である。バストは中年で、おっぱいは子供だ。

同じものを指しているのに呼び方で雰囲気が変わることが興味深くて、それが露骨に出るのが「性」と「排泄」にかんするものだと思う。このへん自分のなかで気になっているところだ。動物としての人間は普通に交尾や排泄をする。それ自体は単なる活動である。そこに文化的な意味が付着するから「下ネタ」という発想も生まれる。「下品」と判断するのも文化の産物なのである。

以前、村上春樹の小説に出てくる「ペニス」という単語を、すべて頭のなかで「ちんぽ」に置き換えながら読んでみたことがあったんだが、とても読み通せるものではなかった。あの記憶がいまだに焼き付いている。男性器のことを「ペニス」と呼ぶこともひとつの小説世界を構築する要因となっていて、それは「ちんぽ」に変えるだけで瓦解するのだ。

これはバカバカしいようで重大な問題である。人は無意識のうちに「性と排泄にまつわる言葉」への態度で自己紹介しているからだ。第一に「言うか、言わないか」の問題がある。「あの人は下ネタをガンガン言う」あるいは「全然言わない」である。さらに「性と排泄に言及するならば、どの言葉を選ぶか?」という問題がある。たとえば村上春樹の作品は男性器をペニスと呼ぶわけである。これは肯定的にとらえるならば「品のよさ」であり、否定的にとらえるならば「気取り」である。

反対に、えげつなく言おうとする人もいる。平気で下ネタを言うことも、状況によっては長所になるのである。そこでは「チンコ・マンコ」とあっさり言ってのけることが格好いい。「スカしてんじゃねーよ」ということである。「チンコはチンコ、マンコはマンコだろ」ということである。これも社会へのアティチュードである。社会への不満や多数派への怒りを示すために、男性器や女性器に露骨に言及する人間もいるのだ。

むろん、ペニスと言われようが、チンコと言われようが、男性器自体はもの言わず、静かに股からぶらさがり、風に揺れているだけである。そこに人間たちがさまざまな意味を見出しているということだ。

欲望の対象としての乳房に話を戻そう。

私は、欲望の対象としての乳房をバストと呼んでも、おっぱいと呼んでも、違和感がある。関西では「チチ」と言われることも多いが、これもしっくりこない。そもそも、欲望の対象としての乳房と正当な距離を保とうとすることに無理があるのかもしれない。欲望の対象としての乳房とのあいだに「正当な距離」などあるはずがない。それは自分の性欲との間に「正当な距離」を見つけようとする発想の異常さなのかもしれない。

最後に、本題とは関係ないが、何度も書いているうちに気になってきたのは「欲望の対象としての乳房」という言い方である。これはなんなのか。外国語を直訳したような不自然な表現である。ドイツの哲学書にありそうだ。あまり知られていないドイツ観念論の書物なんかに。

翻訳サイトでドイツ語にしておいた。

Der Busen als ein Gegenstand der Habgier.

これが「欲望の対象としての乳房」の独語訳である。これを使えば、「バスト」の中年くささからも、「おっぱい」の子供っぽさからも逃れられる。かわりに生まれるのは、すさまじいドイツ観念論くささである(言ってることが適当すぎる)。

「うんここじらせ男子」という存在がいる

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現在、私とうんこの関係がこじれてきている。

過去に前例のないほどに、こじれてきている。

いや、真面目な話なんですが。

この記事では、「うんこをこじらせる」とはどういうことかを説明したい。はじめに言っておくと下ネタではない。「笑い」というものに関する、わりに真面目な考察である。

「うんこをこじらせる」の意味を理解するためには、私とうんこの関係を時系列で整理する必要がある。お付き合いいただきたい。

うんこ期(赤子~幼児)

オムツをしていた。うんこが出ると不快だから泣いて、母親にオムツをかえてもらっていた。そもそもうんこという言葉を知らない。

うんこ面白い期(幼稚園~小学校)

うんこの存在を発見する。実物としてのうんこが面白い。たとえば道で犬のうんこを見つけてキャッキャと笑う。「うんこ」と言うだけでも笑う。うんこを擬人化したマンガで笑うのもこの時期。幼年向けマンガにはうんこの絵があふれている。

うんこ否定期(中学校~高校)

思春期を迎えた。

子供っぽい部分を切り捨てたくなり、ベタな笑いを嫌いはじめた。そしてベタな笑いの筆頭としてうんこが槍玉にあげられた。「うんことか面白くねーし!」という時期。かわりに、ひねった笑いや分かりにくい笑いを好みはじめた。シュールの台頭。

このあたりまでは、なんとなく共感してもらえる気がする。「まあ、言いたいことは分かる」というふうに。しかしここから話がややこしくなる。「こじらせ」が始まるからだ。

「あえて」うんこと言う時期(高校~二十代前半)

うんこの再発見。

あるいは、シュールによるベタ(うんこ)の回収。

うんこを「あえて」笑い、「あえて」の部分まで含めて受け手と共有する。「うんこが面白い」ではなく、「いい年してうんこを面白がる俺たち面白い」という形。男たちの小規模な集団では、しばしばこの現象が起こる。男たちのひそかな楽しみ、それは気心のしれた者同士で密室にこもり、記号としてのうんこにじゃれつくことなのだ。

私にとって、うんこという記号とのじゃれあいは十代の後半にはじまり、二十代前半に黄金期をむかえた。もはやうんこと言えば問答無用で面白いわけではなかった。いかにうんこと言うか? いかなる文脈で言うか? うんこに至るコンテクストを操作することで、ベタな下ネタにすぎなかったものを、コンセプチュアルな笑いとして再提示することはできるか?

これを競い合うのが、あえてうんこと言う人々だった。

文脈を共有していない人間には「単なる下ネタ」にしか見えないのも特徴だった。だからこの時期の自分は、うんこと言った瞬間に「はい下ネタね」と片付けられることに憤りを感じていた。それは小学生の段階だ。我々はちがう。うんこで笑うことを否定したうえで、「文脈」という概念によって、うんこを再導入した。うんこという言葉に素直に反応するな! うんこという言葉がいかに扱われているかを見ろ! うんこに至る文脈を読め!

お気づきだろうが、これが「うんここじらせ男子」である。

「現実のうんこ」の再発見(二十五歳)

あらゆる帝国が黄昏の時を迎えるように、私とうんこの蜜月にも終わりの時がやってくる。きっかけは二十五歳の夏のことだった。当時、私はオモコロというサイトのライターとして活動していた。

ご存知の方も多いかもしれないが、オモコロというのはくだらないことを全力でやる集団である。当時の企画に「犬のうんこのにおいをかぎながら白米を食べる」というものがあった。といっても食べるのは私でなく他のライターだった。私はスタッフの一人として撮影に同行していた。

当日、現場にはタッパに入った犬のうんこがあった。誰かが公園から拾ってきたらしい。撮影前に、みんなでにおいを嗅いでみようという話になった。その場にいた数人のスタッフで一人ずつ嗅いでいった。自分の番が回ってきた。スッと息を吸いこんだ。

「アヴォッ!」という声が出た。

この瞬間だった。この瞬間、自分がうんこをいつのまにか記号化し、本来の暴力性を切り離して、もてあそんでいたことを思い知らされた。十代後半の「あえて」による切断。「普通にうんこが面白い」から「あえてうんこを面白がる」に変わったとき、無意識のうちに私は、うんこのもっとも危険な部分(くさくて汚いところ)を切り捨て、それを「記号」にしたのだ。戦争から死体を取り除いて映像化するように。

この事件を境に、うんこじゃれつき帝国は黄昏を迎えた。もちろん今でも私はうんこという記号を面白いと思うし、その記号にじゃれつくことはある。だがそこに全盛期の無邪気さはない。それは一種のノスタルジーとさえ言える。私とうんこの関係は老年期を迎えたのだ。

ゴリラという記号について

ここですこし脱線して、ゴリラという記号について書きたい。

私がこのブログで使うゴリラという言葉もまた記号化されたものなのだろう。おまえは本当のゴリラを知らない。たまにそんな声が頭のなかで響く。私は実物としてのゴリラに出会うことなく、ゴリラという記号と、そこから喚起されるイメージにじゃれついている。

記号ではないゴリラ、実在としてのゴリラを私が知るとしたら、街にゴリラが解き放たれた時だろう。ノッシノシと歩く野良ゴリラが日常的な光景となり、野良犬に噛みつかれるかのように野良ゴリラにブン殴られるようになったとき、私は記号としてのゴリラに別れを告げ、実在としてのゴリラの暴力性を知ることになる。砕かれたアゴ、したたり落ちる鼻血、いまだ焦点の合わぬ視界、全身に痛みを感じながら呆然とする私の前で、野良ゴリラはドンドンと胸を叩き、ノッシノシと歩き去ってゆくことだろう。

むろん、分かっている。

今このように記述していること自体、まさにゴリラという記号へのじゃれつきなのだ。白状するならば、私は「野良ゴリラ」という言葉の語感、とくに野良とゴリラが「ラ」で韻を踏んでいるところを楽しんでいるし、ノッシノシという非日常的なことばの響きも楽しんでいる。記号としてのゴリラに記号としてのうんこを投げさせる。そこに暴力も不快もない。あるのは記号化された楽しみだけだ。

原初へ

まとめよう。

うんこを素朴に笑っていた幼児の私は、思春期におとずれた「ベタな笑いの抑圧」によって、うんこを否定した。ここに「こじらせ」の種は蒔かれていた。欲望を無理に否定するところに、こじらせは始まるからだ。

数年後、幼児性への未練から、私は「あえて」という形で、うんこを笑うことを復活させた。「うんこをこじらせる」の本格化だ。私は文脈操作によるコンセプチュアルなうんこで少数の男友達と笑っていたが、二十代半ばに犬のうんこの実物を間近で嗅ぐ体験をしたことで、「コンセプチュアル」が切り捨てていたものに気づかされた。

現在の私は、「あえて」まで含めてうんこを否定したい時期に差しかかっている。「こじれたうんこをさらにこじらせる」と言えるのかもしれない。私はもうどんな形だろうとうんこを笑いに結びつけたくない。強いて言うならば、「ただうんこしていた時期」に戻りたいということだ。こう書くとただのおもらし野郎だが。

雨の日はナメクジの裏側ばかり見せられている

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雨の日、小部屋の窓にナメクジがはりついていた。

といっても室内にいるわけではない。窓をはさんだ向こう側にはりついている。それが私の視線の先にある。だから小部屋でパソコンに向かいながら、一日ナメクジの裏側を見ることになる。ディスプレイから顔を挙げるたびに同じような位置でジッとしている。ナメクジというのは、いつ見ても話の通じそうにない外見をしている。

三十六歳女性はギャーギャー言っていた。縁側のほうにも出たらしい。

「どこにもいないよ! なんなの、意外とナメクジ速いの!?」

妙なキレかたをしていた。目撃したはずなのに目をはなした隙に消えていたという。本気を出すとピューッと動けるんだったら面白い。人前ではナメクジとしてのキャラを守っているだけなのだ。しかし高速で動くナメクジはいよいよ気持ち悪さも増しそうですね。

女性はひととおりナメクジにディスを飛ばしていた。塩で溶けるのがダサイ、ヌメるのがキモい、動きがどんくさい、とにかく塩で溶けるのがダサイ、とのことだった。ナメクジ知識が非常に薄い。まあ、私も似たようなもんだが。

「ヤモリだったらいいんだけど」と女性は言った。

たしかに、窓にくっつくヤモリを裏側から見るのは想像するだけでなごむ。窓にはりつくヤモリの小さな手を裏側から見ることは心に平穏をもたらすだろう。小さな手でピタッと窓にはりつく。見るだけで優しい気持ちになれる。しかしナメクジは身体全体で貼りついている。どんだけヌメッてんだよと思わされる。身体だけで窓にはりつけるというのは相当なねばりである。その事実に人は引いてしまうのか。

ナメクジのことを考えているうちに思い出した。子供のころ、近所のヒキガエルに名前をつけていた。なんという名前かは忘れてしまった。しかしペットのように思っていた。家で飼っていたわけではない。近所で見かけるヒキガエルだった。

家族でどこかに夕食に行った帰り、夜道を歩いていると路上のどまんなかに月明かりに照らされた大きなヒキガエルが座っていて、しばらく家族で見ていた。あのころはやたらとカエルを見つけたが、まだ背が低かったからか。

しばらくして、近所の路上で車に轢かれたヒキガエルの死骸を見つけて、私は「あいつなのか? あいつなのか?」と不安に思っていた。あいつなのかはわからずじまいだ。確認のしようがない。

晴れの日は、小部屋の窓から庭の木が見える。その幹の上をアリたちが歩いている。

最近気づいたんだが、アリの動きは非常に洗練されている。すれちがいざまに軽やかに口づけをかわしている。たぶん何かを交換しているんだろうが、あの洗練はすごい。都会的洗練の極みである。すれちがいざまにキスをして、照れることもなくそれぞれの道を行く。キスと忘却。口づけが後を引かない。人類はいまだかつてあれほどの洗練を生み出したことはないだろう。

以上、本日はナメクジとヤモリとヒキガエルとアリの話であった。なんなんだ、この引きのないメンツは。

もはや細長い二文字ではないのか

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とうとう電気代とガス代とネット代を払うことになった。この半年ほどネットのあちこちで記事を書くようになり、収入が増えたからである。三十六歳女性に「払え」と言われた。それはもうシンプルに言われた。三十六歳女性の要求はいつもシンプルだ。

「払えるでしょ、払ってよ、払えるんだから」

払えないなら我慢する、しかし払えるのに払わないのは我慢できない。それが女性の主張だった。正論だった。なので今月から払うことになった。となるとこれはもうただの同居である。ヒモ状のものを見るだけで冷や汗の流れる生活が終わろうとしている(実際はまだ汗は出るが)。

しかしどうも居候気分は抜けない。これは自分の生活空間が二畳の小部屋だからかもしれない。生活空間の異常な狭さが居候という自覚を生んでいるのではないか。ちなみにこの日記では二畳と書いてきたが、女性には「あれ二畳もないでしょ」と言われている。だから実際は二畳もない。

我が家という雰囲気がないことについてもう少し書く。

旅館の布団でめざめた時に、一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなること。「見当識の喪失」というんだろうか。みなさんも一度は経験したことがあると思う。私はあれがひんぱんに起きる。「自分はなぜこの家にいるのか?」と混乱するのである。これが「自分の家に住んでいるという実感がない」の内実だ。

似た例として、外から帰ったとき、カギで扉を開けながら、自分がこの家の扉を開けられることに何の根拠もないように感じることもある。ちなみに今は帰省したときも実家の布団で見当識の喪失が起こる。どこで目覚めても、自分がその家にいる根拠のないように感じるのだ。

もはや私に故郷はない。故郷喪失者である。

かっこよく言ってみたが、夏になるたび私は二畳の小部屋でパンツ一枚だ。今年の夏もそうだった。パンツ一枚で猛暑をやり過ごしていた。服を限界まで脱ぐという原始的な解決法で暑さに対処していた。そうしているうちに夏が終わった。

故郷どころか衣服も喪失している。


ゼロという数字の特別なかっこよさについて

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少年はゼロという数字が好きである。

その理由を考察したい。

ひとまず自分の子供のころのエピソードで始めるが、一般化できそうだと考えている。少年期の私がどのようにゼロという数字を好み、憧れ、惑わされていたか。まずはそこから始めよう。

子供のころ、ひとつ上の兄ちゃんが結成したヒーロー戦隊に加入していた。私のほかに二人の子供がいた。主な活動は「走り回る」だった。近所に悪はいないからである。これは仕方のないことだった。兄ちゃんに連れられて公園などを走っていた。

ヒーロー戦隊では、それぞれの隊員に番号が振られる。われわれも例外ではなかった。近所の小さな公園で、私とほかの二人がブロック塀の前に立ち、正面に兄ちゃんがいた。最初に兄ちゃんは「俺が1号」と言った。これは当然だった。それから私より年下の二人が2号と3号を与えられた。最後に私の番だった。兄ちゃんは私を指差して言った。

「おまえはゼロ号!」

これが私の「ゼロが嬉しい」という記憶の原点である。正直、私は不安だった。兄ちゃんが1号なのはいいとして、自分より年下の二人に2号と3号が割り振られた。まさか自分は4号にすぎないのか。そこに与えられたゼロ号の響き。これがものすごく嬉しかった。

すこし回想の時を進める。中学生のころは「零式」という表現が流行っていた。たとえば漫画『るろうに剣心』において、斎藤一が「牙突零式」という技を使う。これは斎藤の牙突という技のうちで最強のものだ。

ゲームに目をむければ、FF7には「バハムート零式」という召喚獣がいた。これはバハムート・バハムート改の2匹を経て、最強のバハムートだった。

一気に時を進めれば、漫画『ハンターハンター』ではネテロが最終奥義として百式観音の「零」を使う。こういう証拠があるから冒頭で私は「一般化できそう」と言っている。「奥義はゼロになる」という感覚は子供たちに共有されているのではないか。

数字の世界におけるゼロがかっこいいのは、はぐれものだからだ。

まずは増加の世界がある。そこでは1、2、3……と増えるほどに偉い。たとえば年収などがそうである。次に減少の世界がある。たとえばスポーツの順位であり、3位、2位、1位……というふうに減るほど偉い。そしてどちらもゼロとは関係がない。

序列がある時、その序列でトップを取るよりも、序列から外れるほうがかっこいいという感覚。これがゼロのかっこよさの理由だ。ピラミッドの頂点を目指すよりも、ピラミッドの構造そのものから外れることがかっこいいのだ。

算数の世界におけるゼロのかっこよさもある。

かけ算のゼロ。これはどんな数字もゼロにしてしまう。3×0は0である。15×0は0である。それどころか、35兆42億4321万5216×0も0なのである。これがゼロは増減の世界から外れているということの意味だ。数字が増えることが偉いという世界に、ゼロは冷や水をぶっかける。資産が35兆あると言われようがゼロには通用しない。

「んじゃ俺をかけてみるか?」

この一言で終わりである。

次に割り算を考える。ここではさらに怖ろしいことが起こる。まず、0を他の数字で割るとどうなるか? 0である。0を4で割ると0である。0を73で割ると0である。0を51兆で割っても0である。これは無敵である。柔術の極みである。

しかしそれだけではない。たとえば4を0で割ってみる。ここにゼロの真骨頂がある。4を0で割ると「計算不能」なのである。こんなにも胸をときめかせる結果があるか! 計算できると思うじゃないか。これまでどんな数字でも計算できたんだから。なのにゼロは「計算不能」なのである。

そのうえ、ゼロには出生の秘密まである。他の数字とちがい、一人だけインドで生まれたのだ。ゼロは数字界の私生児なのだ。だからゼロは秩序と無関係に生きる。常に例外として存在する。それが例外として存在したがる少年のマインドに合致するのだ。だからこそ、子供のころの私はゼロ号と言われて見事に舞い上がっていたんだろう。

最後に、むかし読んだ本を貼っておく。

異端の数ゼロ――数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念 (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)

異端の数ゼロ――数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念 (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)

 

タイトルの時点で最高である。

「異端の数ゼロ」である。異端なのである。まさに少年の求める立ち位置である。そして副題も最高である。「数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念」である。ぞくぞくする。私だって、もっとも危険な概念として生まれたかった。

自分のアイコンに自分でムカつきはじめた

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このアイコンを長いことを使ってきた。

ブログのプロフィール画像に使っている。ツイッターやフェイスブックでも使っている。寄稿記事でもアイコンをくれと言われれば差し出している。普段から読んでくれている人は見覚えがあると思う。大昔にブログ開設と同時に作ったものだ。真顔日記だから真顔のアイコンにした。単純なものである。

しかし現在、妙な問題が生じている。この顔にムカつきはじめたのである。

初見じゃムカつく顔ではない気がするが(たぶん)、何年も無表情のこいつと顔を付き合わせていると、ムカムカしてきた。おまえはなんなんだという気持ち、おまえは何を考えているんだという気持ちである。自分のアイコンなのに心が読めない。

これは三十六歳女性に作ってもらったものだ。

「あいつムカついてきたんだけど」と言ってみた。

「あたしもけっこうムカついてる」と返ってきた。

「ずっと見てると腹立ってくるよね、あれ」

「やっぱ無表情だからじゃない?」と女性は続けた。同じ意見のようだった。もしかして人は、無表情の顔を何年も継続的に見ることに耐えられないのか。少しはやわらかい要素がないと、微量の毒が徐々に身体に蓄積するように、ゆっくりとムカつきはじめるのか。それはアイコンとしてどうなのか!

ということで、アイコンの表情を作り直してもらうことにした。五年以上前に作ったものなのに、元データをしっかり残してくれていた(きちょうめんな女)。

三十六歳女性がパソコンで細部をいじくり、私は横でアレコレ口出しした。笑ってないのがまずいんじゃないか、一重なのが冷たい印象を与えるんじゃないか、どうも鼻が太すぎるんじゃないか、などなど。

その結果、目を二重にし、くちびるを薄くし、軽くほほえませてみることにした。

完成したのがこれである。

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しかし、これはこれでムカついた。

むしろ、じわじわムカつく顔から、瞬時にムカつく顔になった気がする。

三十六歳女性は「こいつ絶対女グセ悪い」と言った。たしかに、と思った。「いけすかない」という表現がピッタリくる。後輩に手を出しまくるサークルの先輩という感じ。何度かヤッて平気で捨てる。顔はいいが中身はカラッポ。だから同学年は相手にしないが新入生はだまされる。口だけ達者のクズ。それがこいつだ。まあ、アイコンの性格を決めつけてボロクソに言うほど不毛なこともないですが。

「もうわかんないし、勝手に選んで」

三十六歳女性は投げた。

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二つ並ぶと、真顔のほうがいいかもと思った。

チャラい奴と比べれば、真顔のこいつは愛想はないが、一度付き合った女は大事にしそうだ。何を考えているのか分からないところが不満ではあるし、友達に自慢できるような派手さはないけれど、年に一度くらい、二人でいる時にふと、この人と付き合っていてよかったと思えて、そのまましばらく手をつないでいたくなるような、そんな人だと思う。

なんだか、別の男と浮気したことで今の恋人のよさを再確認みたいな話になってるが、このアイコンで継続することに決めた。ムカついてる人いたらすみません。この人いい人なんです、二重のあいつよりは。

もうすぐ潰れるブックオフで買うと無神経に見えるマンガ30選

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ドカベン (1) (少年チャンピオン・コミックス)

以前、ブックオフに行ったら数日後に閉店するタイミングだったことがある。

店内に、閉店を告げるナレーションがえんえん流れていた。やはりしんみりしたムードになる。店員の男がかぼそい声で接客してきた。しかし私は、『ドカベン』の文庫版を20冊まとめ買いしていた。1冊100円だったからである。

もうすぐ死を迎える店舗で、ドカベン20冊まとめ買い。

こう書くと、自分が無神経な存在のように思えてくる。ドカベンという響きのせいだろうか、20冊まとめ買いのほうだろうか。それとも二つの合わせ技だろうか。

とりあえず、もうすぐ潰れるブックオフで買うと無神経に見える漫画としてドカベンが上位にくるのは確かである。

ということで、本日はもうすぐ潰れるブックオフで買うと無神経に見えるマンガを考えてみたい。ひとつめはドカベンである。

 *

グラゼニ
ゼニの戦いに負けたから閉店するのだ。

銭ゲバ
ゼニとの戦いに負けたから閉店するのだ。

ナニワ金融道
ゼニとの戦いに負けたから閉店するのだ。

君に届け
客に届かなかったから閉店するのだ。

トリコ
客をトリコにできなかったから閉店するのだ。

メジャー
マイナーな店舗だから閉店するのだ。

デスノート
ノートに書くまでもなく店は死んだのだ。

ブラックジャック
死んだ店は二度と生き返らないのだ。

ハイスコアガール
店の経営はロースコアだったのだ。

鋼の錬金術師
経営に錬金術などなかったのだ。

おそ松くん
あまりにもお粗末な経営だったのだ。

銀の匙
だから経営者も匙を投げたのだ。

会長島耕作
職を失なった店員たちへのあてつけなのか。

今日から俺は!!
無職になったとでも言いたいのか。

Happy!
どう考えても不幸だろうが。

WORST
言ってやるなよ。

クローズ
閉店することを揶揄しているのか。

バクマン
いっそのこと店ごと爆破してしまえというのか。

テニスの王子様
そして店の跡地でテニスでもやれというのか。

キャプテン翼
さらにサッカーもやれというのか。

スラムダンク
バスケまでやれというのか。

ピンポン
跡地でスポーツをさせようとするな。

シュート!
打たせようとするな。

ホイッスル!
吹かせようとするな。

エースをねらえ!
ねらうつもりはないから。

ルーキーズ
スポーツ以外で跡地を活用しろ。

黒子のバスケ
提案はスポーツ以外で。

アイシールド21
たのむからスポーツ以外で!

キングダム
いきなり王国を建造するのはやめろ。

キングダム
たしかにスポーツ以外でと言ったが。

キングダム
跡地に王国を建てるのは無神経だからやめろ。

 *

以上の作品を、「もうすぐ潰れるブックオフで買うと無神経に見えるマンガ30選」としておきたい。

どうやら、たいていのマンガは解釈次第で無神経になるようである。もうすぐ潰れるブックオフでの買い物というのは非常にむずかしいものである。

しかし私個人としては、やはり店の跡地にいきなり王国を建てるという行為がいちばん無神経であるように感じた。よって、この30作品の中でも、いちばん無神経に見えるマンガは『キングダム』であるとしておきたい。

みなさんも、店の跡地に王国を建造するのはやめましょう。

 

キングダム 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

キングダム 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

 

飼いネコが増えるにつれて変化したこと

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数年前は1匹だったネコが4匹まで増えている。

三十六歳女性があちこちで拾ってくるからである。さすがネコ狂いである。だいたい年に1匹のペースで増えている。そのたびに微妙な心理変化がある。なので今日は、「ネコが増えることで飼い主の心理はどのように変化していくか?」を書いてみたい。

まずは1匹である。

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ネコのいない生活から、ネコのいる生活へ。結局は、この変化が一番大きかった。端的に言えば、笑顔が大幅にふえた。日常におけるスマイルの激増である。ネコを飼っていない頃、三十六歳女性の寝顔は不動明王のようだった。眉間にしわがより、口元は厳しく引き締められていた。私も家に転がりこんだ身として責任を感じたものだ。

しかしネコの登場以降、寝顔はおどろくほど晴れやかになった。これはマジである。基本的にうっすら笑っている。たまに布団の横から実際にネコがチョコンと顔を出していることがあり、そんな時は熟睡しながら満面の笑みである。ネコの添い寝はこれほどまでに人間の精神状態を変えてしまうのか。

もっとも、これは私も同じで、自分のことだから寝顔は分からんが、明らかに生活における笑顔の割合は増加した。日に日に自分の表情が菩薩に近づいてゆくのが分かる。ネコきっかけで菩薩である。「春のこもれびかと思ったら私の後光でした」みたいな日も近い。

さて、2匹である。

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1匹だろうが2匹だろうが変わらないと思っていた。これは勘違いだった。ネコが2匹に増えたことで、「ネコとネコがイチャつくのを見る」という状況が勃発したからだ。この破壊力は多頭飼いをしてみないと分からないだろう。

1匹のネコが丸くなっているだけで破壊力はなかなかのものだが、2匹のネコがくっついて眠っている場合、破壊力は倍ではすまない。悶死である。悶えて死ぬのである。人が悶えて死ぬさまを見たことがあるか!

ネコとネコは交流する。ぬいぐるみのような手で他のネコの頭をポンポンたたくこともある。顔をなめてやることもある。なめられる側はキュッと目を閉じてしまう。尻のにおいをかぐこともある。かがれているほうは真顔である。2匹で追いかけっこをすることもある。遊び疲れれば一緒に寝る。そのいちいちに悶えて死ぬ。命がいくつあっても足りん。

そして3匹に増えた。

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2匹と何が変わったか?

相関図が生まれた。ネコたちのドラマを楽しむようになった。人間のドラマにおいても、男と女の二人じゃ面白いものにはならない。そんなもんは愛し合って終了である。しかし男と男と女、あるいは男と女と女となった時、突如ドラマはふくらみを見せる。

この家の場合、初音、影千代、セツシの3匹となったとき、「関係を愛でる」という発想が生まれた。「カップリング」という発想である。私はネコが3匹になるまで、マンガ等のキャラのカップリングを楽しむという発想がいまいち理解できなかったんだが、ここにきてナルホドと思った。たしかに、ネコたちの関係性を見るだけで脳に快感が走る。「この2匹の関係が好き」という発想も出てくる。

初音と影千代、影千代とセツシ、セツシと初音、それぞれの関係を楽しむ。たとえば影千代とセツシの仲がよい。それだけで興奮する。いつも仲のいいネコを見れば脳に快感が走り、めずらしい組み合わせを見ても脳に快感が走る。とにかく快感が走るのだ。

そして現在である。4匹である。初音、影千代、セツシ、ミケシである。

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関係は全部で6通りとなった。カップリングのバリエーションはさらに増えた。さらに我々はここで、はじめてうまく馴染めないネコというものを知った。最初のうち、ミケシは他の3匹とうまく馴染めなかったのである。マジゲンカしたことも多々あった。

しかし徐々に、他のネコたちとの距離が縮まっていく。たまに近くで寝ていることがある。たとえばセツシとミケシが2匹で寝ている。何も知らない人から見れば「ネコとネコが寝ててカワイイ」だが、飼い主の自分には「あんなにいがみあっていたセツシとミケシが!」なのである。ドラマを読み取っているわけである。「第一話:大キライ」であり「第三話:衝突」であり「第六話:素直になりたい」であり「第九話:君の体温」である。一話から見てきてよかった!

以上、ネコが増えていったときの心理の変化を駆け足で振り返ってみた。さすがにこれ以降は1匹増えても別に変わらない気がしている。5匹だろうが6匹だろうが「たくさん」という認識に変わるのではないか。もちろん、こういう予想はかんたんに裏切られるものであるが。

ちなみに三十六歳女性は「もう増やさない」とうわごとのように繰り返している。1匹の時点から言っている。「増やさない、増やさない」と言いながら4匹まで増やした女である。自分の中にあるネコ拾い欲と戦っているんだろう。来るのか、5匹目。

「ネコのはなし」カテゴリの記事一覧

「SMAPさん」という呼びかたに違和感をおぼえた

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 はじめに、「さん付け」するか否かに関する個人的な感覚を書いておきたい。

・知人を呼ぶときは、さん付けする

・しかし仲良くなれば、さん付けしない

・有名人の名前は、呼び捨てにする

・しかし有名人でも知人ならば、さん付けする

・歴史上の人物には、さん付けしない(織田信長さんとは言わない)

・グループ名にも付けない(SMAPさんとは言わない)

・企業名にも付けない(ソニーさんとは言わない)

これが私の中の「常識」なんだが、常識というのは強固に見えて、すこし叩けばグニャッと曲がる。時代と場所で少しずつ変化するからである。実際、どのような時にさん付けするかは、この十年でも微妙に変化したように感じる。

ということで、「SMAPさん」という呼び名への違和感である。グループ名にさん付けするのか? それはおかしくないか? それとも私の感覚のほうがおかしいのか? 

具体的に考えてみたい。

まず、現在の私はSMAPのメンバーをフルネームで呼び捨てにしている。木村拓哉、中居正広というふうに。これは芸能人全般を呼ぶときの私の態度である。自分の中では非常に自然なことである。

次に、私がSMAPの五人と知り合いだとしてみよう(なんちゅう仮定だ)。その場合、個々人に対しては「木村さん、中居さん」と呼ぶことになる。これも違和感はない。

しかし、それでもグループ名を呼ぶ時は「SMAP」と言うんじゃないだろうか。知人の所属するグループだろうが、さん付けはしないんじゃないのか。

しかし、である。仮に、私がSMAPに楽曲を提供したとする(本当になんちゅう仮定だ)。その場合、どうも「SMAPさん」と言いたくなる気もする。「SMAP」という個人と仕事上の取引をしている気がするからである。

もしも私がSMAPとの仕事をツイッターで告知する場合(なんちゅう仮定だ)、「SMAPに楽曲を提供しました」と言えるだろうか? ちょっと失礼かもと思って、「SMAPさんに楽曲を提供しました」と言ってしまうのではないか?

いまさらだが、この文章を書くきっかけになったニュースがある。SMAP解散の報を受けたスガシカオが、過去に『夜空のムコウ』を提供したことに言及して、「オレの中でSMAPさんは大きな存在」と言っていたのである。そのときの「SMAPさん」という表現に違和感があって書いている。

しかし私は自分のなかの常識がグラつきやすい人間である。へんに細かいところを気にするうえに、常識がグラつきやすい。だから違和感から書き始めたはずなのに、すでにスガシカオの立場ならグループ名にさん付けするんじゃないかと思いはじめている。

つまり、いますぐ私とスガシカオの身体が入れ替わって(なんちゅう仮定だ)、スガシカオとしての私がインタビューでも受けたならば、当然のように「SMAPさん」と言う気がする。スガシカオとしての私は、SMAPさんに感謝しているから(本当になんちゅう仮定だとは思いますが)。

以下、いちいち「なんちゅう仮定だ」とは書きません。

かわりに適当な顔文字をいれます。

とにかく、さん付けの問題は微妙であって、考えれば考えるほど分からなくなる。たとえば、次のような問題もある。私がSMAPのメンバーに相談されるほどの仲だとして (≧▽≦)、人名とグループ名を同時に呼ぶ場合はどうなるんだろうか?

つまり、私が親友の中居正広に質問するとして (◎o◎)、「中居さん、SMAPさんを解散する件ですが」とは言わないはずなのである。この場合、「中居さん、SMAPを解散する件ですが」である。「中居さん」と呼ぶならば「SMAP」は呼び捨てである。これはかなり共感される感覚ではないのか。

ちなみに、これをシンプルに裏返すと、「中居」と呼び捨てにするなら「SMAPさん」と呼ぶことになるんだが、これは絶対にちがう。「よお中居、SMAPさんを解散する件だけどさ」というのは、頭のおかしいチンピラの発言である。

こうなると、冒頭で箇条書きにした「さん付けするか否かの条件」も非常に怪しくなってくる。「歴史上の人物はさん付けしない」と私はあっさり書いた。しかし、歴史上の人物の子孫と会う場合はどうなるのか?

たとえば明日、私が織田信成とメシに行くとして (^o^)/、先祖である織田信長のことはどう呼べばいいのか? なんとなく「信長」と呼び捨てにしてしまいそうだが、それは子孫の前では失礼なのか? やはり「信長さん」と言うべきか? それとも「織田さん」か? しかし「織田さん」だと、信長と信成どちらのことか分からないか?

というか、まず信成のことを私はなんと呼べばいいのか? 「信成さん」か? 向こうのほうが年下だから「信成くん」か? 初対面でこれは馴れなれしいか? 「信成さんは信長さんの御子孫なんですよね」がベストか?

常識がグラグラしてきた。もうだめだ。

あきらかに、自分を支配する無自覚な法則がある。しかし言語化するのは厄介だ。たとえば人工知能に「どのような条件でさん付けすればいいか」は教えられるのか。これは非常に難しいのではないか。

というか、「人工知能さん」か? 人工知能に知性があるならば、さん付けは必要か? 現在、これはアホらしい冗談にしかならないだろうが、十年後、二十年後はどうか? 人間と同等の知性を持ったとき、私は人工知能にさん付けするのか?

そろそろ私の思考はドン詰まりにきてないか?

人は、太陽をさん付けすることがある。「おひさん」というふうに。もっと丁寧に「おひさま」とも呼ぶこともある。しかし「太陽」と呼び捨てることも多い。これはどういうことなのか? 明日、私が銀河系のどこかで太陽とメシを食う場合 (@□@)、なんと呼べばいいのか?

あるいは、月の場合はどうか? これも「お月さん」や「お月さま」と呼ぶが、「月」とも言う。もしも月と太陽と私の三人でメシを食うことになった場合 (*T▽T*)、呼称の問題だけで胃がブッ壊れそうだ。

そろそろ終わりにしよう。

日本語には、「敬語」という形で自然に上下関係が組み込まれているとどこかで読んだことがある。だから私はこのように悩んでいるのだろう。要するに、上下関係なんてものを認識するから問題が起きる。社会に組み込まれた自分、関係の網の目のなかで上下する不安定な自分だから悪い。

すなわち、私が世界の誰よりも偉く (^_^)v

この宇宙における唯一無二の存在であり σ(^_^;)

あらゆる存在をその支配下に置いた場合 (*^◯^*)

さん付けの問題など起こらない。あらゆる人間、あらゆるグループ、あらゆる企業を私は呼び捨てにする。太陽と月も呼び捨てにする。私は神であり、他のすべては被造物だからである。

結論が出ました。

私は神だそうです。ぜんぜん知りませんでした(○゚ε^○)v

パン屋のおばさんにオシャレな問いかけをされた

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現在、私の右ほほには傷がある。

誰かとケンカしたわけではない。飼いネコに引っかかれたのである。抱きかたがまずかったのか、ネコが落ち着かないようすでピョンと飛び降りようとし、私のほほに爪をたてたのだ。マンガでしか見たことのないような分かりやすい傷である。しかし今の生活では、顔に傷があってもたいした問題ではない。一週間もすれば消えるだろう。

今日、パン屋のおばさんに言われた。

「その傷の理由、聞いてもいいのかしら?」

このオシャレな問いかけはなんなのか。ちょっと笑いそうになったじゃないか。完全に不意をつかれたから、「いやあ、ネコに引っかかれちゃって……」と、ものすごく凡庸な返答しかできなかった。ぜんぜんオシャレじゃなかった。

あれはどうすればよかったのか。向こうがオシャレに問いかけてきたんだから、こちらもオシャレに返すべきだったんだが、いまだに正解がわからない。帰宅後もずっとモヤモヤしている。始まるはずだったオシャレなやりとりを、私はだいなしにしてしまったんじゃないか。一体、どうすればよかったのか。

「その傷の理由、聞いてもいいのかしら?」

「あなたの美の理由を教えてくれるならね」

そしておばさんにキス。

これはちがうだろう。パン屋のレジごしにキスしてどうする。「オシャレ=キス」という認識も我ながらひどい。別のパターンを考えねばなるまい。

「その傷の理由、聞いてもいいのかしら?」

「ネコですよ。うちには悪さをするネコがいるんです。もっとも僕の目の前にも、わがままな子ネコがいるみたいですけど」

そしておばさんにキス。

どうも私は、キス以外でオシャレなやりとりを終わらせる方法を知らない。キス以外のまとめかたが分からない。これはちょっとひどすぎる。そもそもこんなものは単なる性犯罪だろう。しかも供述内容が「オシャレな問いかけをされた。キスするしかないと思った」である。馬鹿の犯行である。

オシャレに関するイメージが貧弱だから、少ない武器で戦おうとするとキスしかなくなるのかもしれない。くちびるを重ねときゃオシャレになるんだろ、という発想だ。そんなわけがない。他のパターンはないのか。

「その傷の理由、聞いてもいいのかしら?」

「心の……傷ですか?」

これはうっとうしい。こんなうっとうしい男はブン殴りたい。しかし、あの店員はナチュラルにドラマチックな言い回しをするようだった。これくらいの返答のほうがよかったのかもしれない。

「ううん、まだそこには踏みこめない。まずは右ほほの傷のことを教えて?」

そんなふうに返してきたのかもしれない。

なんだか、オシャレのイメージトレーニングをしている気分になってきた。相手がこう来れば、こちらはこう返して、というふうに。この鍛錬を繰り返すことで、オシャレなやりとりができるようになるのか。

ちょっと、自分のなかでパン屋のおばさんもモーフィングし始めている。明らかに、ここまでキザと気取りをグツグツに煮詰めた女ではなかった。しかしすでに頭の中で見た目が麻生久美子になっている。自分の願望に影響されすぎである。共通点は細身だったことくらいだ。

しかしもう仕方ない。この路線で突き進んでみる。

「その傷の理由、聞いてもいいのかしら?」

彼女に言われたとき、私はしばらく質問の意味をはかりかねた。彼女はパン屋をしていた。小さいが、品のいい店だ。私はたまに訪れてパンを買った。そのうち少しの会話をかわす関係になった。その日の天気のこと、新しく売りはじめたパンのこと。

しかし今回の問いかけは普段とちがった。私はしばし絶句した後、ようやく右ほほの傷を思い出し、経緯を説明した。抱きかたを間違えて、飼いネコに引っかかれてしまったのだと。彼女はほほえんで言った。

「大丈夫なのかしら?」

「ご心配なく。一週間もすりゃ消えますよ」

「しかし消えない傷もある」と彼女は言った。

「もちろん」と私は言った。「人は多かれ少なかれ、傷を抱えて生きているものです。これは一般論ですがね」

私はトレイを置いた。「クロワッサンを二つ、それに少しの愛を」

彼女は小さく笑うと、「馬鹿ね」と言った。

「ねえ、あなたの傷が消えることはあるのかしら? もうひとつの傷が消えることは?」

「コロネパンにでも聞いてください」

「パンは言葉を持たないもの」彼女はクロワッサンをひとつずつ紙袋に入れていった。その指先はとても器用に動いた。私はしばらく見とれていたが、やがて横で寂しそうに放置されているトングを手に取った。

「不思議ですね、このトングでどんなものでもつかめると思っていたのに、人の心だけはつかめない」

「私はね」と彼女は言った。「この店でたくさんのお客さんを見てきたの。トングの使いかたひとつとっても様々だったわ。不器用な人もいるし、乱暴な人もいる。そんなにつかまなくてもパンは落ちないと言いたくなるくらい、ぎゅっと強くつかむのよ。そういうお客さんは接客するときも緊張するの。でもあなたは――」

そこで彼女は言葉を切った。

「あなたはトングを使いながら、パンではない何かをつかもうとしているように見えた」

「僕は」と私は言った。「僕は、すでに終わってしまった人間なんです。本当に大切なものを、ずっと昔になくしてしまった。だからトングでパンをつかみながらも、いつも心はどこか別のところにあるのかもしれない。そしてあなたも――」

私はしばらく次の言葉を探した。

「気を悪くされたら申し訳ないです。あなたもまたそうなのかもしれないと僕はずっと思っていました。あなたの焼くパンはすごくおいしい。でも同時に、僕はあなたの焼いたパンを食べながら、深い悲しみを食べている気分になることがあるんです」

「そんな感想をもらったのははじめてよ」彼女はそう言って笑ったが、ほほえみは持続しなかった。「たまにね、パンを焼きながら空白を焼いているような気分になるの。何もないものを、虚無を、ただの無を焼いているような気持ちになるのよ」

「エンプティ」と私は言った。

「このかまどの中には本当は何もなくて、ただけむりだけが天にのぼっていくのかもしれない。あるいは、わたしが本当に焼いているのは、わたしの心なのかもしれない。そんな日は、すこしだけ泣くの」

彼女は私の手からトングを取った。クロワッサンはすでに紙袋に入れられていた。私たちはしばらく見つめあった。「へんな話になっちゃったわね」と彼女は言った。

「こんなことが言いたいわけじゃなかったの。わたしの話の要点はね、あなたのトングは何もつかめなかったわけじゃないということ」

彼女はまっすぐ私を見つめていた。二対の瞳の深淵。

「あなたのトングは、わたしの心をつかんでいたのだということ」

彼女は店の入口を閉めた。すでに外は暗くなっていた。

「いいんですか? まだ閉店まで時間があるでしょう」

「どうせお客さんは来やしないもの」

彼女は歩幅を確認するようにゆっくりと三歩歩き、私の目の前に立つと、右ほほの傷にふれた。彼女に人差し指の先端でなぞられると、それは自分の傷でないような気がした。

「ひどいことをするネコね」と彼女は言った。

「普段は大人しいやつなんですよ。僕が悪かったんです。変なふうに抱いちまったから」私は愛猫を弁護した。

彼女は私の胸におでこをつけると、小声で言った。

「今度は抱きかたを間違えないように」

私は彼女を抱き寄せた。店の外を一台の車が走り過ぎる音がした。排気音がしばらく耳に残り、ふたたび完全な静寂がやってきた。時計が七時を打った。それが合図だった。私は彼女の髪をなでると、そのくちびるにキスをした。

以上です。

これ、結局キスでまとめるしかなくないですか?

ネコは鼻ありきの生き物である

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ネコは鼻で世界を認識している。

観察しているとそう感じる。人類は目に依存しているが、ネコは鼻に依存している。鼻ありきの生き物だと言っていい。人類は「とりあえず見る」が、ネコは「とりあえず嗅ぐ」のである。

このあいだ、部屋のプリンタの位置を変えたとき、ネコたちがスンスンとにおいを嗅いでいた。モノの配置を変えるたびにネコはこれをする。同居人女性はこの習性を利用して、飽きられたネコグッズを定期的に別の場所に移動している。まんまとネコたちは利用する。

「ちょ、ちょろい……」

同居人はあきれている。

このあいだの雨の日は、家に侵入してきたナメクジをスンスン嗅いでいた。ネコにとっては、プリンタもナメクジも同じということか。自分の生活空間に入ってきたものは、無機物だろうが有機物だろうが新入り扱いする。「ちょっと顔出せや」というかんじ。正確に言えば、ちょっとにおい嗅がせろや。最悪の先輩である。

人間の場合、鼻をヒクヒクさせると原始人っぽさが生じる。たとえばレストランで見慣れない料理が出てきたとき、あからさまに鼻をクンクンさせれば馬鹿に見えるだろう。顔面を近づけて本格的ににおいを嗅ぎはじめれば狂人扱いは必至である。鼻をあまり使わないことは文明人の条件なのだ。そこはネコとちがう。

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ネコには体臭もある。

以前、aikoの歌詞から引用して「バニラのにおいがするタイニーな女の子」について書いた。同居人はこのフレーズを気に入ったようで、うちの初音を「獣のにおいがするタイニーな女の子」と呼んでいる。初音というネコはこの家の4匹でいちばん身体が小さく、いちばん獣のにおいがキツいからである。

それで私はまたしてもaikoの偉大さを知ったというか、獣のにおいがするタイニーな女の子はぜんぜん魅力的じゃないですね。そんな女に男を取られたらaikoも納得いかないと思う。獣のにおいがするタイニーな女の子は四つんばいで合コンに来て、箸も使わずに生肉にかぶりついて、四つんばいで帰っていくだろう。そして参加者が何人か骨になっている。

ちなみに、ネコの体臭はそれぞれにちがう。影千代は毛が長いから、布団を干したときの気持ちのいいにおいがする。いちばんいいにおいである。縁側で日向ぼっこしている影千代を見ると、これは要するに布団を干されているようなものなのかと気づかされる。

子供のころ、外に布団をほした日、母親がよく「おひさまのにおいがするわよ」と言っていた。それで私には刷り込みがある。母親という生き物には太陽のセールスマンみたいなところがあって、太陽のよさを売り込んでくるのである。私はよく売り込まれた。うちの親だけなのかもしれんが。

ネコの話のはずが母親の話になってしまった。

いちおう言っておくが、母親は鼻ありきの生き物ではない。


スタバでaikoを聴いていたら隣にaiko的世界が生まれていた

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まとめ?(通常盤)

スタバでaikoを聴きながら文章を書いていた。これは単なる私の日常である。

隣の席には高校生カップルが座っていた。問題集をひらいて二人で勉強している。これもよくある光景だ。なので私はとくに気にせず、aikoを聴きながら文章を書き続けていた。

集中して三十分ほど、一息つこうとイヤホンを外した。隣には、まだ同じカップルがいた。会話が聞こえてきた。

「〇〇ちゃんとなんで別れたんよお」
「なんかちゃうかってんもん」
「あの子ええ子やん」
「あかんねん、なんか」
「ふうん」
「もうええねん、新しい恋したいわあ」

私は勝手にこの二人をカップルだと思っていたが、会話の内容からすると付き合っていないようだった。というか、男のほうは別に彼女がいたんだが、最近別れた。それを目の前の女友達に愚痴っているという状況のようだった。

しかし、である。女のほうは絶対に男のことが好きだった。それは声色や表情から判断された。なのに男のほうは無神経で、彼女と別れたことや、次はどんな女がいいかということを、べらべらと喋りつづけている。

これはaiko的状況だと思ったッッッ!

いや、いきなり興奮されて、みなさんビクッとなったかもしれない。猟銃を取りに走ったかもしれない。それは申し訳ない。おどかすつもりはなかった。興奮してしまっただけだ。あらためて言わせてほしい。

これはaiko的状況だと思ったッッッ!

私は店内で真顔のまま興奮していた。イヤホンでaikoを聴いていたら、隣にaiko的状況が生まれている。発生している。勃発している。これが興奮せずにいられるか!

「あなた」は別の女の子のことが好きで、「あたし」は友達にすぎなくて、「あたし」はずっと「あなた」を見ているのに、「あなた」は気づかずに、無関係な「あの子」を見ている。私は学者が書庫から該当する書物の1ページを探すように高速でiPhoneを操作し、該当するaikoの一曲を探しはじめていた。

周りに集まった友達
何も言ってくれないのは
あなたのそのまなざしが
遠くのあの子映したから

『相合傘』

これだッッッ!

手元の銃を降ろして、もうすこし話を聞いてほしい。

恋愛とは三角関係である。だからaikoの曲にはしばしば「あの子」の存在がよぎる。たとえば『相合傘』においては、男の瞳には「あの子」が映っている。

aikoは「あなたの瞳に何が映るか?」に強くこだわる女である。恋愛とは要するに視線の奪い合いだと知っているからである。「あなた」の視線はなかなか「あたし」を向かない。それどころか、「あなた」は「あの子」に視線を向けている。この過酷な状況において、aikoは数々の楽曲を生みだしてきた。

いまaikoを聴くべきなのは、絶対に私ではなく私の隣の女だった。こういう女が自宅でクッションに顔をうずめながら聴くためにaikoの曲はあるのであり、三十すぎの男がスタバでわけの分からない文章を書きながら聴くためにあるのではない。このイヤホンの適切な位置は私の耳の穴ではなく隣の席で男の話にあいづちを打って笑いながら泣いている女の耳の穴であり、適切な場所に置かれずしてaikoの何がaikoか!

しかし私は社会動物であり発狂など全然していないから(狂人はそういうこと言うもんですが)、隣の女に唐突に話しかけることはしなかった。かわりに、aikoの多数の作品のうち「あなた」が「あたし」を見てくれないときに聴くべき曲をリストアップしていた。以下がその一覧である。

1 相合傘

相合傘の所
右傘に誰が宿る
あなたであるように望みたくして

先ほど引用した曲だ。ここでaikoは相合傘の片方に自分の名前を書き、隣にくる「あなた」のことを想像している。しかし周りの友達は前向きなことを言ってくれない。「あなた」の目は「あの子」を向いているからだ。

2 アスパラ

あなたの視線追うと
必ずいるあの子の前を

通り過ぎてる事で
あたしに気付いてほしくて

この曲にも「あの子」が登場する。そしてここでもaikoは「あなた」の視線に注目している。「あなた」の視線を追うと、そこには必ず「あの子」がいる。だからaikoは「あの子」の前をわざと通り過ぎるようになる。「あの子の前を通り過ぎることで、あたしに気づいてほしい」からである。

3 恋堕ちる時

見つめられる前にあたしが見つめる
ねぇ気付いてほしくて

この曲に「あの子」は出てこない。しかしやはり「あなた」は「あたし」を見ていない。だから「見つめられる前にあたしが見つめる」ことになる。一方通行の視線をなんとかして両方向にする。そのために必死でもがく時、またひとつ曲が生まれるのだ。

4 初恋

「まばたきするのが惜しいな」
今日もあなたを見つめるのに忙しい

aikoのスケジュールは「あなた」を見つめることで埋まる。aikoの手帳を埋めるのは商談でもなければ飲み会でもなく「あなた」に視線を向けることなのである。そして、ただ視線を向けるだけのことが、「まばたきするのが惜しい」というほどに極まる。まさにaikoを象徴する歌詞である。

5 ボブ

髪を切りました
そうとうバッサリと

見てほしいけど
勇気がないのです

ここでaikoは髪を切っている。しかし「見てほしいけど勇気がない」という。さんざん「気づいてほしい」と言っていたaikoが、ここでは「見てほしいけど勇気がない」と言い出したのである。このややこしさがaikoの真骨頂である。

視線を向けられることは、自分が秤にかけられることでもある。だからこそ、「あなた」に見てもらうことには勇気がいる。「見て」と「見ないで」の往復運動で、aikoの心は揺れ続けるのだ。

以上

以上の曲を暫定的に「あなたがあたしを見てくれない時に聴くべきaikoの5曲」としておくが、こんなものはブログに載せても意味がない。私はみなさんに知らせるためにこのリストを作成したのではない。本当はスタバで隣の席にいたあの女に教えたかった。あの女に教えるために作成した。

本当は話しかけたかった。相手の男がトイレに立ったタイミングであの女の肩をポンと叩いて言ってやりたかった。あなたのような存在のために200以上の曲を生み出している人がいます。その名をaikoといいます。私はaikoではありません。ただの伝道師にすぎません。しかし私はほとんどaikoでもあります。aikoを聴くことはaikoになることですので、私はすでにほとんどaikoではあるのですが、そこは社会動物としての節度を守り、あくまでも伝道師という立場を固持したうえで、ほとんどaikoとなった私が、すでにaiko的世界に生きながらaikoを知らないあなたに言いたいことは、あなたは今すぐaikoを聴くべきだということなのです。しかしあなたは膨大な楽曲群にひるむことでしょう。

ご安心ください。私がすでに5曲を選んでおきました。

それだけ言って、女にイヤホンを渡してやりたかった!

そして店を出禁になる。

 

 

 

動物の鳴き声番付2016冬

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動物の鳴き声にも色々ある。どの鳴き声が好きか考えていた。

パオーンはかなり良い。好きな鳴き声というとき即座に連想されたのはパオーンだった。ゾウという動物自体には思い入れがないのに、パオーンだけは特別だ。もしかしてパピプペポが入っているからだろうか。私はとにかくパピプペポのひびきに弱いから。

ネコとイヌ

ネコの鳴き声は多様である。これはネコの鳴きかたが多様というより、人間がネコのことをよく考えているからいろいろな表記が生まれているということだろう。犬も同様である。ゾウにあまり鳴き声の表記がないのは、日本人の生活にゾウが入りこんでこないからか。

ネコの鳴き声を具体的に見ていくと、ニャーはもはや日常だろう。ニャンはすこしあざとさが強くて好みでない。にゃむ、の長老っぽさは良いかもしれない。ニー、は子ネコっぽさが良い。ニャッ、は歯切れのよさが好み。にゃんにゃん、は嫌いである。あざとい。

イヌの場合、ワンワン、ワン、バウッ、あたりか。私はワオーンを推したい。これは月夜に屋根の上で吠えるときの声だと認識している。実際に見たことはないが。

くぅ~ん、は好きである。にゃんにゃんは嫌いなのに、くぅ~んは認めるのか。ここは突っ込まれても弁明できない。しどろもどろになる。「矛盾するのが人間です」で押し通すしかないだろう。

馬のヒヒーンは、非常に良いと思った。ヒヒンも良い。ヒヒーンとヒヒンだと、ヒヒンのほうが好きである。ここは伸ばさずにいったほうがいい。馬にはブルッというのもある。ヒヒーンは「いななき」だが、ブルッは何なのか。そもそも鳴き声ではなく鼻息か。これは、かなり渋い気がする。

書いているうちに、ブルッを褒めたくなってきた。このあたりは、自分のなかにある「ツウぶりたい」という欲望が悪さをしている。馬の鳴き声といえばヒヒーンだろうと盛り上がる場で、ブルッという鼻息の魅力をさりげなく評価してみたい。これはダメ。もっと素直に評価せねばならない。番付に自意識を持ち込むな。

ウシ・ヤギ・その他

次に、ウシとヤギである。モ~~〜は良い。メェ〜~~も良い。これは、どちらも伸ばせば伸ばすほど味が出てくるタイプの鳴き声だろう。「モ~」にはたいした魅力を感じないが、「モ~~~」あたりでじわじわと良さを感じはじめる。「モ~~~~~」までくると大好きである。

しかし「モ~~~~~~~~〜〜〜」までいくと、多少、やりすぎか。あざとさが強すぎる気がする。このあたりのバランス感覚は非常にむずかしい。しかし、にょろにょろが付くほど魅力の増すタイプの鳴き声というのは確実にある。肺活量あってのものだ。牛の体が大きくてよかった。

ワニ、カバ、カメなどは無口である。鳴き声がない。それは、鳴き声番付にエントリすらできないということである。努力してほしい。

次に鳥である。ピヨピヨというのはよい。チイチイもよい。チッチもよい。カラスの鳴き声で「アホー」というのもあった。あれは被害妄想だろう。

ここで、すこし評価に困っているものを挙げてみたい。夏の終わりに聞こえてくる、ホーホー・ホホー・ホーホー・ホホーという声である。あれはキジバトというハトの鳴き声らしい。ちなみに、よく公園にいるハトは「ドバト」で、それとは違うとのこと。しかし「ドバト」という響きを聞くたびに思うが、ひどい名前ですね、ドバト。

さて、キジバトの鳴き声は、ホーホー・ホホー・ホーホー・ホホーである。これが妙に気になる。好きかと言われれば、別に好きではない。とても名曲とは言いがたいメロディだ。そもそも音域が狭いんだろうか。夏、この声をきくたびに「なんなんだよ」と思うんだが、それは単調で面白みのない歌をひたすら歌い続けるキジバトへの動揺の気持ちからである。普通、もうすこしバリエーションを付けたくなるものじゃないのか。

ホーホー(→→)・ホホー(→→)、ホーホー(→→)、ホホー(→→)

これはちょっと、今の私の手には余る。よって、ランキングでは選外とする。名盤というよりは珍盤という感じか。

しかし意外と、こういうものが百年後に残るのかもしれない。その場合、私はゴッホを評価できなかった同時代人のように、あるいはカフカに見向きもしなかった同時代人のように、あるいはニーチェを狂人として片付けた同時代人のように、キジバトを単調のひとことで切り捨てた同時代人として、百年後の人間に笑われるのだろう。それは仕方ない。こればかりは、後世の評価を待つしかない。

番付確定

 1.パオーン
 2.モ~~~~~
 3.ニャッ
 4.メェ~~〜〜
 5.ヒヒーン

以上を、2016年冬における、動物の鳴き声番付としておく。

上下の対称性にこだわったので、順位自体はそこまで重要なものとは考えないでほしい。歯切れのよいニャッを真ん中に配置し、その上下にのびればのびるほど魅力を増すモ〜〜〜とメェ〜〜〜を配置。そして最初と最後にパオーンとヒヒーンを置いて全体を引き締めた。なかなかのものだと自負している。またそのうちやる。

 

日常と動物

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大学生のとき、馬が構内を歩いているのを見たことがある。大学に馬術部があったからだろう。人が乗っており、ゆっくりと歩いていた。あれは面白い光景だった。

動物というのは写真やイラストで見ることが多いから、実物を見ると、そのサイズ感におどろく。馬はものすごく大きかった。カフカの短編、というか生前は発表されなかった断片的な草稿のなかに、街に唐突に白馬があらわれる話があるんだが、それを思い出した。

しかしカフカを読んでいると、まだ馬車の時代だから、馬という存在に対する感覚が現代とちがうように感じる。ものすごく頻繁に馬が出てくる印象だ。日常にあんな巨大な動物がうろうろしていたというのは、いまでは想像がつかない。現代都市は、日常からヒトより大きな動物を放り出したのか。

都市の日常に、イヌネコより大きな動物はおらん。馬も牛も街にはおらん。そのかわり自動車ばかり走っているのが現代だ。巨大な生き物が歩いているだけで現実感は歪む。私は、路上をカバが歩いている光景を見てみたい。数年前、近所で祭りがあって路上をウシが歩いていたが、あれはすごく良かった。大量によだれを垂らしていた。

自動車ということばで思い出したことがある。

ネコを飼いはじめる前、同居人女性とふたりで、目に入った自動車をすべてネコとして扱う遊びをしていた。よっぽどネコを飼いたかったんだろう。提案したのは私だが、それは近所のスーパーまで歩くたび、女性が「ネコいるかな、ネコいるかな」とうるさかったからだ。大抵いない。五分ほどの道のりだからだ。

「じゃあ、車をネコと思うことにすればいい」とルール設定したわけである。現実にネコがいないなら、ネコの定義を変えてしまえばいい。「自動車=ネコ」の方程式さえ飲み込んでしまえば、現実は思い通りになる。これが認識の魔法である。

スーパーまでの五分の道のりで、車は平気で十台以上見ることができる。人の家に停まっている。大通りを走っている。それを、すべてネコだと思ってみる。ネコが停車している。ネコが走っている。ネコがゴロゴロとエンジン音を立てている。夜道にネコのヘッドライトが光る。ネコのワイパーが揺れる(ひげ)。

この遊びは、いちどで廃れた。私も早急に飽きたし、女性も「自分をだませない」と言った。「ネコじゃなくて車だもん」とのことである。「俺もそう思う」と言っておいた。そう簡単に認識をかえられてたまるか。

インタビュー記事が公開されました

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blog.hatenablog.com

週刊はてなブログ編集部にインタビューしていただきました。おもにブログについて、色々と喋っております。編集の方の尽力もあり、わりといい感じに仕上がったと思っております。ひとつくらい、役に立つことも言ってるはず!

なお、公開前の原稿では、aikoに関する部分が、

aikoのことを書くと指が勝手に動き出して、いつも最後は「aikoに書かされている」という状態になるんですよ(笑)!

になっていたんですが、「そこは笑い事じゃないので」ということで、「(笑)」を削ってもらいました。現在は以下のようになっています。

aikoのことを書くと指が勝手に動き出して、いつも最後は「aikoに書かされている」という状態になるんですよッ!

結果的に、とつぜん発狂した男みたいになってますが(ふつう、ここまで唐突に興奮した男はアワ吹いて死ぬと思う)、そういう経緯があったのです。グラップラー刃牙にaiko好きの男が参戦してきたみたいなテンションですが、ご理解ください。

読んでいただけると幸いです。

テクノロジーがアホらしさを産み落とした瞬間

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同居女性のスマホが妙に鳴る。

ピンポーンという明るい音。ニュース記事を読むアプリを入れたらしい。あたらしい記事が配信されたときの通知音だという。このあいだも鳴っていた。へえ、と思って画面をのぞくと、ズラッと並んだ記事のいちばん上に、「うんちの量と美人の関係」と書いてあった。いったい、何の記事を読もうとしているのか。

「ひどい偶然だよ!」と女性は言った。

「読もうとしたわけじゃないの?」

「読もうとしたわけじゃないよ!」

同居人の弁明によれば、これは勝手に配信されたものであり、自分で望んで読もうとしたものではない、うんちの量と美人の関係にあたしは何の興味もない、うんちの量と美人の関係を知りたいと思ったことは人生で一度もない、この見出しに何の引力も感じない、美人がどんな量のうんちを出していようが知ったことか、ということだった。

「読まないの?」

「読まないよ! 読むわけないでしょ!」

カッと目を開いて断言していたが、長く居候してきた身で言わせてもらえば、こういう場合、この女はかくじつに読む。あとでこっそり読んだはず。「ほほーん」的な反応をしたはず。あごに手をおいて。

しかし、わざわざピンポンと音をならしてうんちの量と美人の関係をお知らせするのは、現代文明のゆがみだと思う。最新型のスマートフォンで、うんちの量と美人の関係についての情報を受け取る。日本のあちこちで通知が鳴り、多くの人々がうんちの量と美人の関係を受け取る。こう考えると、テクノロジーがアホらしさを産み落とした瞬間を見てしまった気分。

ネットという公共空間に配信するんだから、もう少しマシなタイトルを付けりゃいいのにと思うが、まあ、私の言えた義理ではない。すこし前に「うんここじらせ男子という存在がいる」という記事を書いてますからね。完全に同じ穴のむじな。うんこをこじらせたり、うんちと美人が関係したり、現代の人間も大変だ。排便くらい、自然現象として淡々とやりたいもんですが。

余談だが、「むじな」という言葉、なんかうんこっぽい。東北あたりの方言で、うんこのこと、むじなと言いそう。まあ、これはマジで余談ですが。余談としての強度がすごいですが。あ、みなさんメリークリスマス。

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